吉野郡

吉野郡は奈良県南部を占める広大な範囲で、北部の龍門山地や南部の紀伊山地など多くの山地に囲まれます。ほとんどを森林が占める奥大和地域は人が寄りつかず、東吉野村でニホンオオカミが最後に捕獲されています。自然豊かな山地は歴史文化や修験道のほか多くの特産物を生み出し、手漉き和紙・柿の葉寿司・吉野葛・吉野杉などの産地となりました。
概要
- 面積
- 2,054.9km2
- 人口
- 35,817人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 吉野町、大淀町、下市町、黒滝村、天川村、野迫川村、十津川村、下北山村、上北山村、川上村、東吉野村
- 地図
特集
歴史
日本一の桜の名所と言われる吉野は、応神天皇の離宮として吉野宮が置かれました。大海人皇子は吉野宮で壬申の乱を起こし、京都を追われた後醍醐天皇が南朝の拠点としました。飛鳥時代から奈良時代に活躍した役行者は、大峰山を開山して修験道を確立して修験道の聖地となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
吉野川流域は古くから人が住み、宮の平遺跡や丹生川原手垣内遺跡で縄文時代早期の土器が出土しています。縄文時代後期になると井戸本遺跡や東平遺跡など遺跡が増えています。弥生時代の遺跡は最も多い中期から次第に減少していきますが、越部ハサマ遺跡から菊里型住居が確認されています。

瀞八丁
奈良県・三重県・和歌山県にまたがる大渓谷で、硬い岩盤が浸食により形成しました。奥瀞、上瀞、下瀞に区分され、中でも下瀞は断崖や奇岩群が続く瀞八丁と呼ばれます。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代前期から中期の遺跡は少なく、古墳時代後期から古墳の造営が始まりました。岡峯古墳や槇ヶ峯古墳は紀ノ川下流域に多く見つかる岩橋型石室があり、越部古墳からは金銅製単鳳環頭柄頭が出土しています。
白鳳期の出来事
斉明天皇2年(656年)に吉野宮が築造され、天智天皇10年(671年)に大海人皇子が大津宮から吉野宮に入り、天武天皇元年(672年)に壬申の乱を起こしました。吉野水分峯(青根ヶ峰)は四方に川の源を発することから神奈備山として崇められおり、外来の仏教・儒教・道教などが融合して日本独自の修験道となり、役行者が金峯山上で厳しい修行の末に蔵王権現を感得して修験道の本尊としました。

岡峯古墳
下市町阿知賀にある6世紀後半に築造された円墳です。玄室と羨道の間に前道を持ち玄室の奥壁に石棚がある珍しい構造をしています。

石神古墳
大岩区の北端の丘陵頂部に築造された7世紀中葉の円墳で、花崗岩の巨石を用いた横穴式石室は吉野郡域で最大規模を誇ります。

宮滝遺跡
縄文時代から中世にかけて営まれた遺跡で、縄文時代後期の宮滝式土器が確認されたほか、天武天皇や持統天皇がたびたび訪れた吉野宮跡と考えられる建物跡の一部が出土しました。
奈良時代、平安時代
比曽寺跡や龍門寺跡に古代寺院が造営され、宮の平遺跡には神社が置かれたほか、官衙関連遺跡として土田遺跡が残されています。古来から吉野は桜の名所として知られ、平安時代に編まれた古今和歌集にも詠われています。金峯山の信仰が隆盛して、宇多上皇や白河法皇などの皇族や藤原道長や頼通などの貴族が競うように金峯山詣でを行いました。源頼朝に追われた源義経は、京都から吉野へ逃げて吉水神社と奥千本に身を隠しました。

比曽寺跡
聖徳太子が創建した48か寺のひとつで、日本最古の仏像の伝承が残ります。7世紀後半には存在し、8世紀頃には東西に塔を配置する薬師寺式の伽藍を整えていました。

龍門寺塔跡
7世紀後半に創建したと言われる古代寺院跡で、行者が修行の場としていました。かつては金堂や三重塔、宿坊などの伽藍が建ち並んでいました。
鎌倉時代、南北朝時代
平安時代に平家と結びつきが強い地域のため、平清盛の孫・平維盛や宮崎県椎葉村で源氏方の那須大八郎と恋仲となる鶴富姫が最期を迎えたとする平家落人伝説が野迫川村に残されています。元弘2年(1332年)に護良親王が吉野山で挙兵し、鎌倉幕府と吉野山で戦いとなりました。鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は建武の新政を始めましたが、不満を持つ武士をまとめた足利尊氏と対立して京を追われ、吉野を行宮として南朝を開きました。
長禄の変
室町幕府は両統迭立を約束して南北朝合一されますが、幕府はこれを反故にしたため、尊義王は神璽を携えて再び川上村に後南朝を樹立しました。後南朝2代自天王は、長禄元年(1457年)に室町幕府に主家再興の約束を取り付けた赤松家遺臣の謀略により討ち取られ、南朝の血統は途絶えました。
室町時代、安土桃山時代
室町時代中期に南朝方の抵抗が収まると、京都や奈良で大規模寺院の建立や武家屋敷の建設のため良質な木材の需要が高まり、日本で初めて植林を行うなど林業が盛んになりました。本願寺蓮如が浄土真宗を布教し、本善寺や願行寺が開かれるのもこの時代です。時勢が織田信長から豊臣秀吉に移り変わると、吉野の木材は大阪城や伏見城などの建築資材となり、日本一と称される吉野の桜は豊臣秀吉の大規模な花見の舞台となりました。

大蔵神社庭園
大蔵神社に残されている泉水庭園で、室町時代中期以前に造営されたと考えられています。泉から水を引いて2つの池を配し、浮島や立石などでしつらえていました。

願行寺庭園
願行寺の本堂と大書院の中間にある庭園で、室町時代末期に築造されました。穏健な石組みを主として玉石を敷きつめ、平坦地を水面に見立てた枯山水的な庭園です。
江戸時代
江戸幕府を開いた徳川家康は、吉野を直轄領として五條代官所を設置しました。奥大和地域は将軍家の御用材所として江戸に材木を納め、江戸時代中期の町人文化の成熟に伴い醤油樽や味噌樽の生産地となりました。林業は大いに栄えましたが、旗本の中坊広風の知行所である龍門郷は増税に苦しみました。文政元年(1818年)に龍門郷の農民が龍門騒動と呼ばれる百姓一揆を起こし平尾代官所を襲撃する事件を起こしています。
天誅組の変
幕末に尊王攘夷運動が盛んになると、文久3年(1863年)の大和行幸の詔が下知されました。中山忠光や土佐出身の吉村虎太郎らは天誅組を結成し、五條代官所を制圧して朝廷直属地として五條御政府を樹立しました。8月18日の政変で京都御所から尊王攘夷運動派の公家や長州藩が排除されて大和行幸が中止されると、天誅組は大義名分を失い孤立する状態となりました。天誅組は徹底抗戦を主張して高取城を攻めるもこれに敗れ、吉村虎太郎は東吉野村で果てました。
明治時代、大正時代、昭和時代
慶応3年(1867年)の大政奉還の翌年に奈良県が誕生し、明治4年(1871年)の廃藩置県で五条県から奈良県となりました。明治元年(1868年)の廃仏毀釈で吉野の修験寺院は悉く廃寺に追い込まれますが、実利行者が修行や祈祷を続けたことで現在も受け継がました。明治22年(1889年)の十津川大風水害で大きな被害を受けた2500人ほどの村人が北海道に移住して新天地を開拓しました。昭和34年(1959年)の伊勢湾台風や翌年の第二室戸台風で大きな被害を受けています。
熊野参詣道(小辺路)
高野山と熊野本宮を最短距離で結ぶ70キロほどの道です。水ヶ峰、伯母子岳、三浦峠、果無峠の山越えがあり、最短ルートでありながら非常に険しい山岳参詣道です。

熊野参詣道(小辺路)
高野山と熊野本宮を最短距離で結ぶとても険しい山岳参詣道です。深い山には苔むした森が広がります。


