東牟婁郡

東牟婁郡は和歌山県南東部にあり、西は紀伊山脈の南端にあたり東は熊野灘が広がります。温暖な気候を活かした柚子などの柑橘類の生産が盛んで、沿岸部は世界最北限のサンゴ群落としてラムサール条約に登録されています。水産業では回遊魚や伊勢エビ・アワビ・サザエなどの水揚げが多く、ハマチやマグロ養殖のほか太地は古式捕鯨の発祥地として全国的にも知られています。
概要
- 面積
- 667.22km2
- 人口
- 34,150人(2021年11月1日)
- 含む町村
- 那智勝浦町、太地町、古座川町、北山村、串本町
- 地図
特集
歴史
平安時代中期から天皇や上皇などをはじめ多くの人びとが熊野詣に訪れ、その様子は蟻の熊野詣と称されました。江戸時代になると太地で捕鯨が盛んに行われ、捕鯨の本場として天下にその名を轟かせ、日本の古代捕鯨から近代捕鯨へと牽引していきました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
かつて繰り返された巨大噴火は熊野カルデラを形成し、古座川の一枚岩など巨石信仰に結びつきました。旧石器時代の遺跡は確認されておらず、縄文時代から人が住み始めたと考えられています。

潮岬
潮岬は本州最南端の地で、先端に大芝生が広がります。わが国最初の洋式木造灯台である潮岬灯台があり、ここからの展望は山口誓子は太陽の出て没るまで青岬と称えました。

橋杭岩
高さ15メートルの大小40の岩塔が850メートルにわたり一直線に並ぶ景勝地です。国の朝日百選にも選ばれており、水平線から現れる太陽が岩と海を黄金色に染めます。

滝ノ拝
古座川支流の小川は、砂岩質互層からなる河床が河水と砂礫で侵食されて無数の甌穴が形成され、中央部は滝が後退して落差8メートルの瀞を形成しています。
古墳時代、飛鳥時代
漁業を生業とする人びとの営みが笠島遺跡で見つかり、紀伊半島南東部で唯一となる本州最南端の前方後円墳である下里古墳が造営されました。天平勝宝6年(756年)に遣唐使の使節である吉備真備が帰朝するときに牟漏崎に漂着した記録が残されています。

下里古墳
大田川河口の平地にある本州最南端の前方後円墳です。5世紀に築造されたと考えられており、墳丘の主軸に沿う竪穴式石室からガラス製玉や碧玉製管玉が出土しています。
奈良時代、平安時代
律令体制が整備されるに伴い木の国牟婁郡に属しました。平安時代中期から天皇や上皇などをはじめ多くの人びとが熊野詣に訪れ、その様子は蟻の熊野詣と称されました。熊野三山を統轄する熊野別当が勢力を築いて那智荘を管理し、治承4年(1180年)に熊野別当・湛増は源平合戦で源氏方として参戦しました。
鎌倉時代、南北朝時代
承久3年(1221年)の承久の乱で熊野別当家は後鳥羽上皇に与して鎌倉幕府と対立しました。この頃の上皇や天皇による熊野詣は減少しており、熊野別当家は勢力を落としていきました。北条得宗家は熊野を直轄領として国人衆の反発を招いたため、塩崎荘を本拠地とした池大納言平頼盛の末裔である塩崎氏や北条得宗家が阿波国から派遣した安宅氏が熊野海賊を抑えたとされます。
室町時代、安土桃山時代
紀南地方は群雄割拠の状態となり、塩崎氏や小山氏らの国人衆が乱立していました。塩崎氏や小山氏は南朝方となり、足利尊氏が派遣した足利一門の石常義慶と交戦となりました。 紀伊守護畠山氏の家督争いを端緒として応仁の乱が起こると国人領主も東西に分かれて争いました。

大泰寺の板碑
大泰寺の参道右山手に建立されている板碑で、熊野地方では珍しく上方の月輪内に梵字が彫られています。永和5年(1379年)の銘が記されています。
江戸時代
元和5年(1619年)に徳川頼宣が紀伊に入国し、奥熊野の大半を新宮藩水野氏が領有しました。慶長11年(1606年)に太地浦を基地として突捕り法による捕鯨を始め、延宝3年(1675年)に和田頼治が網取法を考案したことで太地の捕鯨は飛躍的に発展し、紀州藩の保護もあり捕鯨の本場として天下にその名を轟かせました。

捕鯨の祖和田頼元墓
太地浦の庄屋で鯨組の宰領を務めた和田頼元は、慶長11年(1606年)に鯨を銛で捕殺する刺手組を作り組織的な捕鯨業を始めたことで捕鯨の祖と称されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治3年(1870年)に樫野埼灯台が運用を始めました。太地捕鯨は悪天候で多くの漁師が事故死した大背美流れを契機に西洋式捕鯨法が導入されました。鯨の回遊も減少するにつれて太地捕鯨は次第に衰退しますが、くじらの町として古式捕鯨の伝統を受け継ぎながら近海での小型捕鯨が続けられています。
エルトゥールル号遭難事件
明治23年(1890年)に樫野崎沖でオスマン帝国のフリゲート・エルトゥールル号が台風により遭難し、乗組員500人以上が死亡する海難事故が発生しました。国際的な大規模海難事故となりましたが、地域の住民の協力により遺体や遺品の回収が行われたことで日本とトルコとの国際交流が盛んになりました。

樫野埼灯台
イギリス人技師R・H・ブラントンにより建設された日本最初期の石造灯台です。昭和29年(1954年)に大規模な改修が行われましたが、官舎は当時の形態をよく残しています。

エルトゥールル号遭難事件遺跡
明治23年(1890年)に発生したオスマン帝国のエルトゥールル号の海難事故で、海に投げ出された乗組員等が樫野埼灯台の灯火を頼りに

南方曼陀羅の風景地(金刀比羅神社)
天保7年(1836年)に海運や漁業で栄えた村人が金毘羅大権現を勧請して創建しました。五色ヶ浜の海岸の景観が良く、南方熊楠は熊野三景の一つに数えました。
熊野参詣関連史跡
熊野三山のひとつ熊野那智大社があり、平安時代から上皇や貴族などが訪れました。上皇や天皇による熊野行幸では田辺から本宮、新宮、那智に至る長く険しい山道を越える中辺路が御幸道となり、田辺市から那智勝浦町の浜の宮までの海沿いの大辺路は、時間に余裕のある庶民や文人墨客が枯木灘や熊野灘の風景を愛でながら歩いたようです。紀伊半島東岸を南下する伊勢路は、主に東国から熊野三山を目指す参詣者が使用しました。江戸時代に伊勢神宮への参詣と青岸渡寺を一番札所とする西国巡礼が盛んになり多くの人が利用するようになりました。

那智大滝
那智原始林の中にある日本三名瀑のひとつで、落差は133メートルあります。麓には那智大滝の拝所のみで構成される飛瀧神社があり、修験道の滝行の聖地とされてきました。

熊野那智大社
仁徳天皇5年(317年)に創建したと伝えられる那智大滝に対する自然崇拝を起源とする神社です。

青岸渡寺
熊野那智大社に隣り合い、古くは如意輪堂と呼ばれる熊野修験の一大拠点でした。織田信長の焼討で焼失しましたが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が再建しました。

補陀洛山寺
青岸渡寺とともに那智権現7か寺のひとつでした。観音菩薩が住む浄土を目指し海を渡る補陀落徒海の出発点で、平安時代から江戸時代にわたり船出した僧侶の名が残されています。

山上不動堂跡(熊野那智大社)
応仁元年(1467年)に那智山執行法印道湛が庵室を建立し、聖護院門跡の道興が不動尊像を板扉に刻して開眼供養したと伝えられています。

亀山天皇御卒塔婆建立地跡(熊野那智大社)
那智大滝までの石階段の左側にあり、周囲を柵で囲まれています。亀山上皇の宸翰が建てられていたとされ、現在は写しが安置されています。

花山法皇御籠所跡(熊野那智大社)
花山法皇は那智大滝からさらに100メートル離れた原始林の中に籠り修行を行いました。近くには円成寺がありましたが、現在は石垣が残されているだけのようです。

中世行幸啓御泊所跡
熊野那智大社参道の石段の半ばにある実方院は行幸啓の宿泊所に指定されており、青岸渡寺所属の尊勝院は天皇や貴族らの熊野参詣で宿泊所に充てられました。

無量寺境内(熊野参詣道大辺路)
無量寺は虎関禅師が開山した古刹で、紀州屈指の大寺として知られます。文化元年(1804年)に当山派の三宝院門跡一行の熊野入峰で昼食休憩した記録があります。

多富気王子跡(熊野那智大社)
杉並木の大門坂にある王子跡で、かつては那智山一の鳥居がありました。殺生禁断石や下馬標石があり、那智霊域に入る前に禊祓して心身を清める場として扱われたようです。


