ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

西牟婁郡

和歌山県西牟婁郡の白良浜

西牟婁郡は和歌山県の南西部に位置し、紀伊山地を背に太平洋に面しています。黒潮の影響で温暖な気候で、温州ミカン、ヤマモモなどの果樹栽培や梅干しの生産が盛んです。豊かな海に恵まれており、品質の高いケンケンカツオ、伊勢エビなどの海産物が豊富で、枯木灘と呼ばれる水平線に沈む夕陽が絶景です。

概要

面積
432.8km2
人口
38,826人(2022年2月1日)
含む町村
白浜町、上富田町、すさみ町
地図

特集

和歌山県田辺市の紀伊山地

紀伊山地の霊場と参詣道

紀伊山地は自然信仰の対象として金峯山、高野山、熊野三山の山岳霊場が生まれました。それぞれの霊場は参詣道で結ばれ、日本の宗教文化の発展に影響を与えました。

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和歌山県田辺市の南方曼陀羅の風景地(天神崎)

南方曼陀羅の風景地

植物学者で民俗学者の南方熊楠は、我が国特有の天然風景は我が国の曼荼羅と述べました。南方熊楠が守り抜いた自然風景は国の名勝に指定されて保護されています。

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歴史

平安時代に上皇や天皇、貴族が盛んに熊野参詣を行い、蟻の熊野詣と呼ばれるほど栄えました。熊野灘の沿岸は、平安時代に源平合戦などで活躍した熊野別当家が掌握し、江戸時代には菱垣廻船発祥の地として海運の拠点となりました。古くから温泉地として知られる南紀白浜は斉明天皇と中大兄皇子が湯治に訪れたことで知られ、日本屈指のリゾートビーチリゾートに発展しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代に遡る遺跡は今のところ確認されていませんが、十九渕遺跡から縄文時代草創期の有舌尖頭器が出土し、天狗谷遺跡では条痕文土器から突帯文土器に至る多くの遺物が確認されています。富田川流域では瀬戸遺跡や田尻浜遺跡などで弥生時代前期から後期の遺物が確認され、富田川河口近くの中地区から銅鐸が出土しています。

和歌山県西牟婁郡の円月島(高嶋)及び千畳敷

円月島(高嶋)及び千畳敷

円月島は礫岩でできた小島で、島の中央部は波の浸食で穴があいてます。千畳敷は砂岩からなる緩やかなスロープ状の大きな岩盤で、波の侵食で複雑な地形となりました。

古墳時代、飛鳥時代

白浜半島や富田平野の安久川河口部に古墳が集中して築かれ、権現平古墳群は本州で最南端に位置する群集墳として位置付けられています。阪田山遺跡では5世紀後半の円形配石遺構から玉や剣の模造品が出土し、祭祀が行われたと考えられています。斉明天皇4年(658年)に斉明天皇と中大兄皇子が牟婁の湯を訪れますが、この行幸の裏で有馬皇子が謀反の疑いを掛けられて牟婁の湯に移送されました。有馬皇子は中大兄皇子に尋問されたのち、帰路の藤白坂で絞首刑に処されました。

和歌山県西牟婁郡の火雨塚古墳(熊野三所神社)

火雨塚古墳(熊野三所神社)

熊野三所神社の境内にある円墳で、7世紀前半頃に築造されたと考えられています。片袖式の横穴式石室は板状岩石を積み上げた天井には2枚の板石を置います。

和歌山県西牟婁郡の安久川の塚穴

安久川の塚穴

羨道を除いてほぼ完全な形を残している円墳で、羨道と玄室からなる横穴式石室があります。地域の人びとからはガマンドサンと呼ばれて崇拝されています。(未公開)

奈良時代、平安時代

瀬戸遺跡から奈良時代から平安時代にかけて稼働していた製塩炉が見つかりました。院政期になり熊野詣が盛んに行われ、白河、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇が熊野行幸を行いました。紀伊半島南部は太平洋海運の要地であり、熊野別当家が支配しました。熊野の水軍領主は独自に行動していましたが熊野別当湛増が水軍領主を組織化していき、湛増は平家から源氏に味方して壇ノ浦の戦いの戦いの勝利に貢献しました。

鎌倉時代、南北朝時代

承久3年(1221年)の承久の乱で熊野別当家は後鳥羽上皇に与して鎌倉幕府と対立しました。この頃の上皇や天皇による熊野詣は減少しており、熊野別当家は勢力を落としていきました。北条得宗家は熊野を直轄領として国人衆の反発を招いたため、北条得宗家は阿波国から安宅氏を派遣して熊野海賊を抑えとしたとされます。南北朝時代は詳しく分かりませんが、南朝方として山本氏や安宅氏が活動していたと見られています。

室町時代、安土桃山時代

紀南地方は群雄割拠の状態となり、山本氏、安宅氏、周参見氏などが存在しました。紀伊守護畠山氏の家督争いを端緒として応仁の乱が起こると、国人領主も東西に分かれて争い、龍松山城の戦いや鴻巣城の戦いなどが起こりました。天正13年(1585年)の豊臣秀吉の紀伊征伐では、湯川氏や山本氏は最後まで提供しますが、安宅氏や久木小山氏、周参見氏は豊臣秀吉に帰順して所領を安堵されました。

和歌山県西牟婁郡の安宅氏城館跡

安宅氏城館跡

熊野水軍として支配していた安宅氏の城館群です。安宅氏は平地の居館で生活して八幡山城を詰城とし、日置城や大向出城で日置川河口や熊野灘を監視しました。

和歌山県西牟婁郡の龍松山城跡

龍松山城跡

室町幕府の奉公衆をつとめた山本氏の居城でした。山本氏は最後まで豊臣秀吉に抵抗しましたが、和睦交渉に赴いた途中で謀殺されて山本氏は滅亡しています。

江戸時代

紀伊藩の支配下に入り、明暦3年(1657年)に周参見浦に口熊野奉行所が置かれました。日置川は主に材木の舟運として利用されました。富田川河口に位置する富田浦は菱垣廻船発祥の地として知られ、海運の拠点となりました。熊野参詣はこれまでの中辺路とは異なる海沿いの大辺路が利用されるようになり、名だたる文人がその様相を紀行文などに記したため、文人墨客の道と呼ばれるようになりました。

和歌山県西牟婁郡の安久川の千躰仏

安久川の千躰仏

安久川河口にある地蔵山には石仏が点在しており、山頂には貞享4年(1687年)と宝永2年(1705年)のものを含め、およそ50体もの江戸時代中期の石仏が祀られています。

和歌山県西牟婁郡の安居近世用水路附安居暗渠碑

安居近世用水路

庄屋の鈴木七右衛門が主導して整備された灌漑用水路で、文化2年(1805年)に完成しました。日置川から導水して安居に至る2キロ

明治時代、大正時代、昭和時代

明治22年(1889年)の十津川大水害で紀伊半島は大きな被害を受けました。和歌山県出身の生物学者で民俗学者の南方熊楠が、明治42年(1909年)から神社合祀の反対運動を起こしました。南紀白浜はビーチリゾート開発が進み、昭和53年(1978年)に開園したアドベンチャーワールドはパンダの飼育や展示を行うことからパンダの町として有名になりました。

和歌山県西牟婁郡の南方曼陀羅の風景地(八上神社)

南方曼陀羅の風景地(八上神社)

富田川の支流である岡川右岸の高畑山の東端裾部にあり、かつては八上王子と呼ばれる熊野九十九王子のひとつでした。神林にはスギ・イチイガシなどが群生しています。

和歌山県西牟婁郡の南方曼陀羅の風景地(田中神社)

南方曼陀羅の風景地(田中神社)

岡川左岸の水田地帯に位置する神林に囲まれた神社です。民俗学者の柳田國男は日本特有の風景として、南方熊楠は熊野三景の一つとして評価しました。

和歌山県西牟婁郡の南方曼陀羅の風景地(九龍島)

南方曼陀羅の風景地(九龍島)

古座川の河口付近の沖にある小さな島で、山頂部には海上安全・大漁を祈願して弁財天が祀られています。オオタニワタリの生息地として南方熊楠が保護を求めました。

熊野参詣道(中辺路)

熊野三山に至る熊野古道のうち田辺から本宮、新宮、那智に至る山道で、長く険しい山道を越える山岳修行の一面もありました。平安時代から鎌倉時代に皇族貴族が繰り返した熊野御幸では中辺路が御幸道となりました。

和歌山県西牟婁郡の一瀬王子跡

一瀬王子跡

富田川を渡る場所で、熊野に入るために川で身を清める禊が行われました。寛文6年(1666年)に紀伊藩が再興し、明治40年(1906年)に春日神社に合祀されました。