ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

伊都郡

和歌山県伊都郡の天野の里

伊都郡は和歌山県北東部に位置し、中心部を紀の川が東西に流れています。弘法大師空海が創設した高野山は日本仏教の聖地となり、真田昌幸・幸村親子が配流されました。温暖な気候は全国有数のフルーツ王国となり、富有柿は日本一の産地として日本一の串柿の里と称されています。

概要

面積
332.87km2
人口
22,382人(2021年11月1日)
含む町村
かつらぎ町、九度山町、高野町
地図

特集

和歌山県伊都郡の壇上伽藍

弘法大師空海と高野山

遣唐使で中国に渡り真言密教の悉くを継承した空海は、嵯峨天皇より高野山を賜り真言密教の根本道場を整備しました。高野山は日本仏教の一大聖地となりました。

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和歌山県田辺市の紀伊山地

紀伊山地の霊場と参詣道

紀伊山地は自然信仰の対象として金峯山、高野山、熊野三山の山岳霊場が生まれました。それぞれの霊場は参詣道で結ばれ、日本の宗教文化の発展に影響を与えました。

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歴史

1200年以上前に弘法大師空海が開いた高野山は、日本仏教の聖地として宗教都市を形成しました。高野山は時の権力者である織田信長や豊臣秀吉の侵攻や明治時代の寺領返還を受けて存続の危機を迎えながらも参拝客や観光客を集めて聖俗混交の宗教都市を形成しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

かつらぎ町に東渋田遺跡・丁ノ町妙寺遺跡・船岡山遺跡などの縄文時代の遺跡が残されています。船岡山遺跡は紀ノ川の中島に位置する集落遺跡で、早期から晩期まで断続的に遺跡が営まれ、市脇遺跡では縄文時代前期と中期末~晩期の土器や石器等のほか屋外炉・土坑等などが確認されました。弥生時代前期の遺跡はほとんどなく中期以降の遺跡が分布します。かつらぎ町の佐野遺跡では弥生時代中期から古墳時代にかけての円形竪穴建物13棟、隅丸方形竪穴建物4棟、方形竪穴建物4棟の竪穴建物が検出され、柏原遺跡からは中期後半の18基の方形周溝墓と9棟の竪穴建物が確認されたほか、血縄遺跡から銅鐸形土製品が出土しています。

和歌山県伊都郡の玉川峡

玉川峡

九度山町丹生川の上流にあたる雨の森から橋本市北宿までの峡谷は、奇岩怪石の間から大小の滝を連ねる景勝地を形成しています。

古墳時代、飛鳥時代

紀ノ川中流域の古墳時代の遺跡は下流域と比べるとやや少ないですが、西渋田1号墳、真田古墳のほか佐野遺跡や慈尊院Ⅱ遺跡などの集落遺跡が見られます。九度山町の真田古墳は横穴式石室をもつ円墳で、かつらぎ町の西渋田 1 号墳は結晶片岩の板石を組み合わせた箱式石棺を内部主体にもつ古墳時代中期の円墳です。古墳時代の集落としては、船岡山遺跡で竪穴建物が1棟検出され、九度山町の慈尊院Ⅱ遺跡から古墳時代中期後半の竪穴建物4棟が検出されています。飛鳥時代になると寺院が建立されるようになり、金堂・塔・講堂のほか六角経蔵の存在が確認された佐野廃寺が設けられました。

和歌山県伊都郡の佐野寺跡

佐野寺跡

飛鳥時代後期の寺院跡で、その伽藍配置は法起寺式と考えられています。川原寺式軒丸瓦、本薬師寺式軒丸瓦、巨勢寺式軒丸瓦が出土し、7世紀後半の造営と考えられています。

奈良時代、平安時代

大宝元年(701年)の大宝令制定により伊都郡に編成されました。弘仁7年(816年)に弘法大師空海が真言密教の修行道場として高野山を開創し、高野山への参詣道である町石道とその登り口にあたる本町は物資の集散地、宿場町として栄えました。11世紀頃になると藤原道長や藤原頼道などの権力者による高野参詣が相次ぐなど高野山は信仰の聖地として全国に知られるようになり、荘園の寄進も活発化して高野山は安定した経済基盤を確保しました。

和歌山県伊都郡の中世農耕用水路文覚井(文覚井水利組合)

中世農耕用水路文覚井

文覚上人が開削したと伝わる水路で、宝来山神杜の東裏手にあります。文覚上人は荘園の更なる発展を図るため、農耕用水路を開削して完成させました。

鎌倉時代、南北朝時代

貞応2年(1223年)頃に北条政子が源頼朝の菩提を弔うため金剛三昧院を建立し、源実朝の菩提を弔うため出家した幕府の重臣・安達景盛がこの寺に住んだこともあり、高野山は幕府の庇護を受けることとなります。鎌倉時代後期には覚斅の発願により慈尊院から奥之院に至る当時の主要参詣道に1町ごとに石造五輪卒塔婆が建てられ、弘安8年(1285年)に落慶供養が行われました。この時建立された216基の町石はすべて寄進によるもので、後嵯峨上皇や北条時宗も寄進しています。高野山が開創されてから高野山領官省符荘が設置され、高野政所が存在したとされる慈尊院を基点に広大な領地を形成しました。かつらぎ町窪・萩原遺跡では紀ノ川の堤防が確認されるなど紀州の治水技術は高いものがありました。

和歌山県伊都郡の禅尼上智碑

禅尼上智碑

覚鑁坂にある砂岩でできた禅尼上智に関係する石塔です。頭部は欠損しており原型はわかりませんが、永和元年(1375年)の北朝の年号が刻まれています。

室町時代、安土桃山時代

足利尊氏が金剛三昧院の僧・実融に帰依したことで高野山は室町幕府の保護を受けました。多くの将軍が高野参詣を行い、康応元年(1389年)の三代将軍・足利義満の高野参詣は大規模と言われます。高野山には高野聖の中で蓮華谷聖・萱堂聖・千手院聖という三大聖集団が形成され、高野山と弘法大師信仰が守護や大名等の高野参詣が盛んになりました。高野聖の活動により多くの有力者が納骨や墓石建立を勧めたことで現在の奥之院にみられる数多の墓石が建ち並ぶ独特の景観が形成しました。高野山は大藪墳墓をはじめ丹生都比売神社境内遺跡、金剛峯寺遺跡などから多数の経塚が発見される信仰が篤い地域となり、来日していたルイス・フロイスは多くの僧侶が学ぶ姿を見て高野山を中世日本の六大学と記しています。

紀州征伐

高野山は22もの在地武士や官省符荘官の居城がある一大勢力を成しました。織田信長に謀反を起こした荒木村重が高野山に逃げ込んだことを契機として、天正9年(1581年)に織田信長が高野山攻めを行いましたが、本能寺の変により高野攻めは中止されました。天正13年(1585年)に豊臣秀吉は根來寺を攻め、紀伊国雑賀地方の一揆を屈伏させて高野山にも降伏を迫りました。客僧として畑谷池を改修したとされる深覚坊応其(木食応其)は、豊臣秀吉の陣中を訪れて高野山存続と保護を説いて高野攻めが中止となりました。豊臣秀吉は武装解除後の高野山に対して伽藍の再興や奥之院の修復、母の供養のための青巌寺の建立などを行いました。

和歌山県伊都郡の宝善院庭園

宝善院庭園

安土桃山時代初期に作庭された池泉蓬来式庭園で、小堀遠州が作庭したと伝わります。泉庭の奥に築山はなく、枯山水庭園のような趣が残されています。

和歌山県伊都郡の高麗陣敵味方戦死者供養碑

高麗陣敵味方戦死者供養碑

豊臣秀吉の朝鮮出兵で戦死した敵味方の霊を慰めるため、慶長4年(1599年)に島津義弘・忠恒父子が奥の院にある島津家の墓所の一角に建立しました。

和歌山県伊都郡の真田屋敷跡(善名称院)

真田屋敷跡(善名称院)

関ヶ原の戦いで西軍に与した真田昌幸・真田幸村父子は高野山に配流され、九度山で生活しました。真田昌幸は九度山で亡くなり、真田幸村は大阪夏の陣で討死しました。

江戸時代

高野山は弘法大師信仰に基づく宗教上の聖地で豊臣政権下で返還された 2 万石以上の寺領を有する宗教領主という性格があり、江戸幕府は高野山が強大な宗教勢力となることを恐れていました。高野山は真言密教の研究を中心的な役割とする学侶方と寺院の管理や法会などの実務を担う行人方があり、幕府はこれらと高野聖を加えた高野三派の分断政策を行いました。15世紀中頃から学侶方と行人方との対立が激化し、元禄5年(1692年)に幕府は学侶方と行人方の抗争に乗じて多くの僧坊の取り潰しと行人らの遠島や山外追放する元禄聖断を行いました。

聖俗混交の宗教都市

高野山は宗教上の聖地として全国的な知名度があり、多くの人が参詣に訪れたことで土産物店が繁盛し、聖俗混交の宗教都市としての性格が形成していきました。高野山は女人禁制のため町家が集まる区域も男性しかいませんでしたが、高野山を訪れる女性は多く、女人道と呼ばれる山上の周回路を巡り轆轤峠などから遥拝していました。

和歌山県伊都郡の天徳院庭園

天徳院庭園

元和8年(1622年)に加賀藩主前田利常が天徳院が建立したときに築庭された池泉式鑑賞庭園です。池中に鶴島と亀島の中島を置き石橋を架けて、これらが繋がります。

和歌山県伊都郡の崇源夫人五輪石塔(蓮華院)

崇源夫人五輪石塔(蓮華院)

寛永4年(1627年)に駿府藩主徳川忠長が慈母崇源院の追善のために造立した五輪塔です。高野山にある石塔の中で最も高く大きいため一番塔と呼ばれています。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治2年(1869年)に堺県の管轄となり、翌年の五條県の管轄を経て、明治4年(1871年)に和歌山県の管轄となりました。この年の太政官布告により金剛峯寺は境内地を除く全ての寺領を新政府に奉還して高野山は窮乏の時代を迎えました。明治5年(1872年)には太政官布告により女人禁制を解くことが命じられましたが、明治38年(1905年)まで女性と7歳以下の子どもの在住を認めませんでした。明治21年(1888年)の大火により廃寺の跡に家屋や店舗が開かれて寺院の間に町家が並ぶ寺内町の原型が形成していき、昭和9年(1934年)の弘法大師入定千百年御遠忌大法会の大規模な区画整理で現在の基盤が形成されました。

大法会と交通網の整備

明治17年(1884年)の弘法大師入定千五十年御遠忌大法会で高野山への参詣客が大幅に増えて町家の商売が繁盛し、大正4年(1915年)の高野山開創千百年記念大法会では寺院や町家を移動させて高野山上の道路が整備されました。高野登山鉄道が大阪の汐見橋駅から橋本駅まで開通したことで大阪方面からの参詣客が高野山女人堂に至る道を利用できるようになり、高野山上へ通じる主要な道路沿いに宿場町が形成されました。昭和5年(1930年)に極楽橋から高野山に登るケーブルカーが開通し、昭和9年(1934年)に玉川有料林道が完成して橋本市から自動車が入るようになりました。昭和40年(1965年)の高野山開創千百五十年記念大法会に向けた高野山有料道路の完成、昭和59年(1984年)の弘法大師入定千百五十年御遠忌大法会に向けて高野龍神スカイラインが完成して飛躍的に交通網が整備されました。

熊野参詣道(小辺路)

高野山と熊野本宮を最短距離で結ぶ70キロほどの道です。水ヶ峰、伯母子岳、三浦峠、果無峠の山越えがあり、最短ルートでありながら非常に険しい山岳道です。

和歌山県伊都郡の熊野参詣道(小辺路)

熊野参詣道(小辺路)

紀伊半島のほぼ中央部を通る古道で、霊場高野山と神域熊野本郡大社を最短で結びます。紀伊山地を縦走する険しい通で、熊野から高野へ向かう人びとは高野道と呼びました。