ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

弘法大師空海と高野山

和歌山県伊都郡の壇上伽藍

高野山は弘法大師空海が開いた日本仏教の一大聖地で、険しい山岳地帯の大自然に囲まれた盆地にある宗教都市です。空海は遣唐使で中国に渡り、長安の青龍寺で真言密教の悉くを継承しました。日本に帰国して真言密教を各地に広め、嵯峨天皇より高野山を賜り真言密教の根本道場を整備しました。空海は高野山で入定し、醍醐天皇より弘法大師の諡号を賜りました。

弘法大師・空海

宝亀5年(774年)に讃岐国で生まれた空海は、延暦23年(804年)に遣唐使で唐に渡り、真言密教の最高権威である長安・青龍寺の恵果阿闍梨から真言密教の悉くを継承しました。大同元年(806年)に日本へ帰国して真言密教を各地に広め、弘仁7年(816年)に嵯峨天皇より高野山を賜りました。承和2年(835年)に高野山で入定し、延喜21年(921年)に醍醐天皇より弘法大師の諡号を賜りました。

高野山の創建

根本道場の地を求めていた空海は、高野御子大神と出会い高野山へと導かれました。天照大御神の妹で高野御子大神の母である丹生都比売神から高野山を借り入れ高野山が開山されました。空海は丹生都比売大神と高野御子大神を高野山の守護神と定めました。

和歌山県伊都郡の丹生都比売神社境内

丹生都比売神社境内

空海が高野山を開山するにあたり丹生都比売神社が神領を寄進したと伝えられています。高野山の守護神であり、高野山で僧侶になると参拝して札を納めることが慣習となりました。

慈尊院と高野参詣道

空海は高野山参詣の表玄関として慈尊院を創建し、表参道として町石道を整備しました。慈尊院は空海を訪ねて来た空海の母が暮らした場所で、空海は母に会うために月に9度訪れたため九度山の地名が生まれました。高野山には高野七口と言われる7つの道が整備されましたが、明治5年(1872年)に女人禁制が解かれるまで多くの女性信者は慈尊院から高野七口の各入口に設けられた女人堂を参拝しました。

和歌山県伊都郡の慈尊院

慈尊院

弘法大師空海が高野山を開山する際、高野山参詣の表玄関として創建しました。空海の母が移り住み、母の死を受けて弥勒堂が建てられ、弥勒菩薩から慈尊院と名付けられました。

和歌山県伊都郡の丹生官省符神社

丹生官省符神社

地元にゆかりのある丹生都比売を祀る神社で、弘仁7年(816年)に弘法大師空海が慈尊院の守り神として祀りました。女性信者はここから女人禁制の高野山を拝んだとされます。

和歌山県伊都郡の高野山大門

高野山大門

表参道を進んで最初に現れる総門です。左右に祀られている金剛力士像は東大寺南大門の仁王像に次ぐ巨像で、江戸時代中期の大仏師・運長と康意によるものです。

和歌山県伊都郡の高野参詣道(町石道)

高野参詣道(町石道)

慈尊院から高野山に至る24キロの道で、空海が高野山の開山のため開いた表参道です。1丁(190メートル)ごとに町石という五輪塔型の道しるべが設けられています。

和歌山県伊都郡の高野参詣道(三谷坂)

高野参詣道(三谷坂)

丹生酒殿神社を起点として丹生都比売神社へ参拝し、町石道を経て高野山を目指す参詣道です。天皇陛下の参詣で使用されたことから、勅使坂とも呼ばれます。

和歌山県伊都郡の高野参詣道(京大坂道不動坂)

高野参詣道(京大坂道不動坂)

紀の川沿いから高野山へ向かう参詣道の中で、最も便利かつ安全であり町石道よりも早く登ることができたため、江戸時代以降は高野参詣の主要道となりました。

和歌山県伊都郡の高野参詣道(黒河道)

高野参詣道(黒河道)

橋本市賢堂から高野山内の千手院谷に入る参詣路で、大和国からの参詣客がよく利用しました。文禄3年(1594年)に豊臣秀吉が高野参詣からの帰路に使われました。

和歌山県伊都郡の高野参詣道(女人道)

高野参詣道(女人道)

高野山は女人結界されていたため、女性信徒の籠堂として7つの女人堂が建てられました。女性信徒は空海の行脚修行に見たて、女人道にある女人堂と摩尼山などを巡りました。

最初の伽藍・壇上伽藍

壇上伽藍は空海が高野山を開山したときに最初に手掛けた場所で、高野山では空海の廟所がある奥之院と並ぶ聖域です。曼荼羅の思想に基づいて配置された金堂、根本大塔、不動堂などの19の建造物が建ち並びます。

和歌山県伊都郡の金堂

金堂

弘法大師空海により高野山開創の早い段階に建設され、創建当初は講堂と呼ばれていました。現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932年)に建てられたものです。

和歌山県伊都郡の根本大塔

根本大塔

高野山のシンボルで、多宝塔様式としては日本最古のものと言われます。塔内中央には本尊の胎蔵大日如来があり、胎蔵大日如来を囲むように金剛界の四仏が配置されています。

和歌山県伊都郡の不動堂

不動堂

鎌倉時代に建立された国宝の建物で、貴族の邸宅を思わせる書院造の様式を残した建物です。入母屋屋根から左右に伸びる鳥の翼のような縋破風が特徴的です。

武家と高野山の関わり

鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻・北条政子は、建暦元年(1211年)に源頼朝の菩提を弔うため、禅定院を創建しました。3代将軍・源実朝が亡くなると、その遺骨を納めて金剛三昧院と改めて将軍家の菩提寺としました。金剛三昧院は鎌倉幕府と高野山を結ぶ寺院として、高野山の中心的な寺院の役割を担いました。

豊臣秀吉と高野山

戦国時代の高野山は寺領17万石以上あり、3万人以上の兵がいたとされます。天下統一を目指す織田信長は、謀反を企てた荒木村重を匿う高野山と対立を深め、天正9年(1581年)に高野攻めを行いました。織田信長が本能寺の変で討たれると、天正13年(1583年)に遺志を継いだ豊臣秀吉が高野山を焼き討ちしようとしますが、応其上人の働きで中止されて高野山の寺領が解放されました。天正18年(1590年)に豊臣秀吉は母・大政所の菩提を弔うため青厳寺と興山寺を建立しますが、青厳寺の柳の間は豊臣秀次が自害する場所になりました。

和歌山県伊都郡の金剛三昧院

金剛三昧院

金剛三昧院にある高さ15メートルの多宝塔は、貞応2年(1223年)に源頼朝と源実朝の菩提を弔うために建立された高野山で最古の建造物のひとつです。

和歌山県伊都郡の金剛峯寺境内

金剛峯寺境内

明治2年(1869年)に青厳寺と興山寺が合併して金剛峯寺となりました。昭和21年(1946年)に高野山真言宗が設立し、金剛峰寺が総本山となりました。

高野山奥之院

一の橋から弘法大師御廟までの2キロの参道には、伊達政宗や武田信玄などのおよそ20万基ともいわれる諸大名の墓所や記念碑が建ち並びます。高野山は10世紀頃に生まれた大師信仰と高野山を極楽浄土とする信仰が相まり、あらゆる階層の信心と尊敬を集めてきました。

和歌山県伊都郡の弘法大師御廟

弘法大師御廟

御廟橋の奥に佇む御廟です。空海は今も御廟の奥の岩室で生きて瞑想を続けていると信じられており、ここから人びとの救済を続けられているとされています。

和歌山県伊都郡の武田信玄・武田勝頼墓地

武田信玄・武田勝頼墓地

武田信玄と勝頼父子は天台、真言、禅宗に対して信仰が篤く、特に高野山には深い関心を寄せていました。供養碑のうち大きい方が武田信玄で、小さい方が武田勝頼のものです。

和歌山県伊都郡の豊臣家墓所

豊臣家墓所

豊臣秀吉は紀伊侵攻で応其上人との講和で高野攻めを取りやめ、のちに高野山を保護しました。高野山には豊臣秀吉とその母、弟である豊臣秀長などの石塔が建てられました。