ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

田辺市

和歌山県田辺市の元嶋神社

田辺市は紀伊半島の南西部で和歌山県の南部に位置し、古くから南紀地方の政治・経済・文化の中心地としての役割を果たしてきました。近畿最大の行政区域を有し、森林が大半を占める中山間地域と海岸段丘が発達する海岸線があります。日本三大美人の湯で知られる龍神温泉や日本最古の湯と言われる湯の峰温泉などの全国的に知られる温泉地が点在し、紀州備長炭や南高梅に代表される産業が盛んに行われています。

概要

面積
1,026.91km2
人口
68,840人(2021年11月1日)
市の木
ウバメガシ
市の花
ウメ
市の鳥
メジロ
地図

特集

和歌山県田辺市の紀伊山地

紀伊山地の霊場と参詣道

紀伊山地は自然信仰の対象として金峯山、高野山、熊野三山の山岳霊場が生まれました。それぞれの霊場は参詣道で結ばれ、日本の宗教文化の発展に影響を与えました。

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和歌山県田辺市の南方曼陀羅の風景地(天神崎)

南方曼陀羅の風景地

植物学者で民俗学者の南方熊楠は、我が国特有の天然風景は我が国の曼荼羅と述べました。南方熊楠が守り抜いた自然風景は国の名勝に指定されて保護されています。

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歴史

平安時代に上皇や貴族らが熊野本宮大社などを参詣する熊野詣を盛んに行いました。京都方面からの紀伊路と高野山からの小辺路、熊野三山へ向かう中辺路と大辺路が交差する結節点で、熊野への入口にあたることから口熊野と呼ばれました。江戸時代に田辺領主となる安藤直次は田辺城下町を整備し、急傾斜の土地を活かすため梅の栽培を推奨しました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

縄文時代早期後半に高山寺貝塚が形成しました。但馬遺跡から縄文時代中期の石斧や土器の破片などが見つかりました。

和歌山県田辺市の百間山渓谷

百間山渓谷

深い原生林に覆われて奇岩や甌穴、大小の滝が連なります。渓谷の道には吊り橋や岩のトンネルなどがあり、沢登りのスリルを楽しみながら自然を楽しむことができます。

和歌山県田辺市の蟾蜍岩

蟾蜍岩

岩屋観音堂の下手の林内に立つ大きな岩で、周囲には直立的な節理が発達しています。形態が大きなカエルが天を仰いで雨を呼ぶ格好に似ているので名付けられました。

和歌山県田辺市の高山寺貝塚

高山寺貝塚

高山寺境内に所在する3基の貝塚です。出土した縄文時代早期の厚手の押型文土器は、高山寺式土器と呼ばれる日本を代表する土器のひとつとなりました。

古墳時代、飛鳥時代

5~6世紀から一般的な盛土ではない自然の岩の隙間を利用した非常に珍しい磯間岩陰遺跡が造営されました。立戸岩陰遺跡や古目良遺跡から製塩遺構や墓地が見つかりました。

和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡

磯間岩陰遺跡

田辺湾最奥部の独立丘陵の海蝕洞窟で、5~6世紀の8基の竪穴式石室系の埋葬施設、7世紀の火葬墓5基と海亀の胸板甲羅を蓋とした特殊な埋葬施設などの墓域の複合遺跡です。

奈良時代、平安時代

院政期になり熊野詣が盛んに行われ、白河、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇が熊野行幸を行いました。紀伊半島南部は太平洋海運の要地であり、熊野別当家が支配しました。熊野の水軍領主は独自に行動していましたが熊野別当湛増が水軍領主を組織化していき、湛増は平家から源氏に味方して壇ノ浦の戦いの戦いの勝利に貢献しました。

和歌山県田辺市の三栖廃寺塔跡

三栖廃寺塔跡

衣笠山の支脈を背にした洪積台地に位置する8世紀前半の寺院跡です。四方の寺域を持つ法隆寺式伽藍配置と推定され、川原寺式の軒瓦や石製の天蓋と相輪が出土しています。

和歌山県田辺市の龍王温泉

龍王温泉

修験道の開祖・役小角が発見し、難陀竜王のお告げで弘法大師空海が開湯したと言われます。島根県の湯の川温泉、群馬県の川中温泉とともに日本三大美人の湯として知られます。

鎌倉時代、南北朝時代

平安時代末期から鎌倉時代初頭に鬪雞神社の南側丘陵に仮庵山経塚群が形成しました。熊野警護職にあたる愛洲経信が衣笠城を築城して支配し、南北朝時代は龍松山城の山本氏らと南朝方として吉野朝を支えました。北朝方の玉置直虎はその戦功により田辺市龍神村を与えられて鶴ヶ城を築城しました。

室町時代、安土桃山時代

天正13年(1585年)の羽柴秀吉の紀伊征伐で愛洲氏や玉置氏が没落し、慶長3年(1598年)に玉置氏の重臣・小川与一が一揆を起こすも鎮圧されました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのあと浅野幸長が和歌山城主となり、慶長11年(1606年)に重臣の浅野氏重が南紀地方を統治する拠点として湊城を築きました。

和歌山県田辺市の近露の宝塔

近露の宝塔

箸折峠の頂部にある宝篋印塔で、風化により相輪が失われています。正和4年(1315年)の造立銘がかつて記されており、室町時代初期の様式を示しています。

和歌山県田辺市の野長瀬氏・横矢氏一族の墓所

野長瀬氏・横矢氏一族の墓所

近露野長瀬家は野長瀬経忠を初代とし、5代目盛忠が横矢氏を名乗りました。天正13年(1585年)に羽柴秀吉に攻められ、野長瀬氏の墓は地下に埋没されていました。

江戸時代

浅野氏にかわり徳川頼宣が紀州藩主になると、家老の安藤直次が田辺領主となりました。安藤直次は湊城跡を田辺城として整備し、急斜面の土地を活かすため梅の栽培を推奨しました。宝永4年(1707年)の宝永南海道地震や安政元年(1854年)の安政南海道地震で大きな被害を受けました。文久3年(1863年)に尊王攘夷派の天誅組は、中山忠光を擁して孝明天皇大和行幸の先駆けをなそうと五條代官所を襲撃したが、幕府の追討を受けて壊滅しました。

和歌山県田辺市の畔田十兵衛墓

畔田十兵衛墓

畔田十兵衛は医者をしながら本草学を研究した人物です。加賀白山での採集旅行を手始めに海産動物を中心とした調査のために諸国を巡り、熊野での採薬旅行で没しました。

和歌山県田辺市の天誅組志士幽閉の倉

天誅組志士幽閉の倉

天誅組の水郡長雄ら8名は十津川から落ち延びましたが、警備が堅固で進退窮まり紀州藩屯所に自首しました。彼らは京都に護送されるまで百姓喜助宅の土蔵に幽閉されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で田辺県を経て和歌山県に統合されました。明治22年(1889年)の大水害では土砂ダムの形成と決壊を繰り返して大きな被害を受けました。和歌山県出身の生物学者で民俗学者の南方熊楠は、明治42年(1909年)から神社合祀の反対運動を起こしました。昭和17年(1942年)に田辺市が誕生しますが、アジア太平洋戦争により急速な防衛施設が構築され、昭和20年(1945年)には回天や震洋の特攻兵器を備えた基地の構築が進められました。終戦を迎えると文里港は海外引揚港となりました。

大峯奥駈道と熊野参詣道(大辺路)

大峯奥駈道は吉野から熊野までの約160キロに渡る修行道で、道中には75カ所の靡と呼ばれる行場があり、古来より貴族や庶民が険しい大峰山脈を巡りました。大辺路は田辺市から那智勝浦町の浜の宮までの海沿いにある120キロほどの熊野参詣道です。熊野参詣のルートとしては中辺路が多用されたため、大辺路は時間に余裕のある庶民や文人墨客が枯木灘や熊野灘の風景を愛でながら歩いたようです。

和歌山県田辺市の大峯奥駈道

大峯奥駈道

吉野から熊野までの160キロの道のりで、和歌山県では田辺市の熊野本宮大社から新宮市を抜けて吉野に続きます。修行道のため険しい山間部につけられています。

和歌山県田辺市の熊野参詣道(大辺路)

熊野参詣道(大辺路)

紀伊路を田辺から海沿いを通り熊野三山へ向かう通で、風光明媚な枯木灘や熊野灘の風景を眺めながら熊野詣が行われました。

和歌山県田辺市の出立王子跡

出立王子跡

会津川の北側の上野山に祀られている王子跡です。藤原定家の熊野御幸紀には、海水で心身を清める潮垢離が行われたことが記されており、ここから山中の中辺路へと向かいました。

和歌山県田辺市の鮎川王子跡

鮎川王子跡

中辺路の一ノ瀬王子と滝尻王子の間に位置し、富田川を渡河して参詣しました。明治7年(1874年)に対岸の住吉神社に合祀され、本殿も移築されました。

和歌山県田辺市の発心門王子跡付南無房堂跡

発心門王子跡付南無房堂跡

数ある王子社の中でも特に格式の高い五躰王子の一つとして格別の崇敬を受け、ここからが熊野本宮大社の神域とされました。

和歌山県田辺市の中世行幸御宿泊所本宮竹の坊屋敷跡

中世行幸御宿泊所本宮竹の坊屋敷跡

天皇や上皇が熊野行幸で宿泊したとされる御成御殿跡です。ここから音無川を渡河して、かつて熊野本宮大社が遷座していた大斎原に参詣しました。