安芸高田市

安芸高田市は広島県の中心部に位置し、市域の8割を丘陵が占めています。中国山地内陸型の気候で年間降水量が多く、冬季は気温が低く夏季は冷涼です。豪華絢爛な衣装と迫力ある舞が特徴の安芸高田神楽が開催されることでも知られます。
概要
- 面積
- 537.75km2
- 人口
- 25,813人(2022年2月1日)
- 市の木
- サクラ
- 市の花
- アジサイ
- 市の日
- 3月1日
- 地図
特集
歴史
安芸高田市は毛利氏が本拠地とした場所で、三矢の訓で有名な毛利元就は、吉川・小早川の毛利両川体制により、小さな地方領主から中国地方一円を支配する大名に成り上りました。江戸時代には石見や出雲を結ぶ交通の要衝として、宿場町や農村地帯が発展し、現在の穏やかな田園風景の基礎が作られました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
郡山大通院谷遺跡から旧石器時代後期のものと推定される角錐状石器が出土しています。縄文時代には大迫遺跡から後期初頭の中津式の浅鉢・深鉢による埋甕遺構が発見されています。弥生時代には新迫南遺跡などで中期以降の墳墓群などが認められており、中期後半の装飾性の高い塩町式土器のほか、後期には山陰系土器が見られています。
古墳時代、飛鳥時代
弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけて、稲山墳墓に四隅突出型墳丘墓が形成しました。古墳時代前期から中期には長方形墳の新宮古墳群、円墳の日南山古墳や前方後円墳の白鳥古墳などが形成しました。甲立第2号古墳は3世紀末~4世紀前半の築造とみられ、この南側にある前方後円墳の甲立古墳との関係性が注目されています。古墳時代後期には中馬八ツ塚・明官地古墳群、彩色古墳の大迫古墳などが形成し、戸島川流域には2段築成の方墳・戸島大塚古墳が造営されました。

甲立古墳
上甲立菊山の山林で新たに発見された前方後円墳で、4世紀後半に築造されたと考えられています。出土例が極端に少ない子持家形などの家形埴輪などが出土しました。

土師大迫古墳
6世紀後半に築造されたと考えられる円墳で、胴張り長方形の平面をなした横穴式石室には県内で唯一、石室内面に赤色顔料の彩色が施されています。

戸島大塚古墳
戸島川東岸一帯にある滝川古墳群の中で最大の古墳です。6世紀後半から7世紀に築造された方墳で、主体部は南西に開口する長さ12メートルの横穴式石室があります。

山部大塚古墳
吉田盆地北方の谷の斜面にある円墳で、7世紀頃に築造されたと考えられています。両袖型の横穴式石室がある珍しい形態で、須恵器の台付長頸壺が出土しています。
奈良時代、平安時代
明官地廃寺跡から金堂や塔跡が検出し、白鳳期に創建したと考えられています。律令体制が整い市域には高田郡と高宮郡が置かれ、掘立柱建物跡が18基検出した郡山大通院谷遺跡は高宮郡衙と見なされており、明官地東遺跡で検出した一列に並んだ掘立柱建物跡4棟は高宮郡内部郷の正倉別院・郷倉と考えられています。全国で荘園が成立すると、吉田荘や内部荘などが成立しました。
鎌倉時代、南北朝時代
承久3年(1221年)の承久の乱のあとに吉田は毛利氏の本拠地となり、庶家が各地に勢力を広げました。美土里町や高宮町には石見の領主高橋氏が勢力を広げ、甲田町には宍戸氏が勢力を保ちました。南北朝時代になると、高田郡と高宮郡は高田郡に統合されました。
室町時代、安土桃山時代
大永3年(1523年)に家督を継承した毛利元就は、周防の大内氏と出雲の尼子氏の間で急激に勢力を広げ、高田郡から安芸、周防、長門、石見、出雲へと領地を拡大していき、中国地方一円に勢力を拡大しました。毛利氏の本拠城は郡山城跡と多治比猿掛城跡で、毛利氏庶家や家臣の関係城跡として鈴尾城跡、桂城跡、田屋城跡、塩屋城跡があり、国人領主の城跡として五龍城跡や松尾城跡などが残されています。天正19年(1591年)に毛利輝元は新たに築城した広島城に移りますが、慶長5年(1600年)の毛利氏の防長移封まで郡山城は使用されました。

毛利元就誕生伝説地(鈴尾城跡)
永徳元年(1381年)に毛利元春の五男・毛利広世が福原に住み、福原姓と改めたのち福原氏の居城となりました。福原広俊の娘は毛利弘元に嫁ぎ、毛利元就を生みました。

多治比猿掛城跡
明応9年(1500年)に毛利元就の父である毛利弘元が隠居に伴い移り住んだ城で、毛利元就が毛利本家を相続して吉田郡山城に移るまで過ごしました。

吉田郡山城跡
南北高時代に築かれた中国地方最大級の山城で、安芸国吉田荘の地頭として定着した毛利氏が居城としました。慶長5年(1600年)に毛利氏の防長転封により廃城となりました。

毛利元就および一族の墓
毛利元就の三回忌に際して毛利輝元が建立した洞春寺跡にあります。明治2年(1869年)に毛利元就のほか毛利興元や幸松丸、杉大方や毛利隆元夫人の墓が移葬されました。
江戸時代
元和5年(1619年)に福島氏に代わり浅野氏が安芸に入りました。広島から三次に通じる出雲街道が江の川沿いに整備され、石見街道へ通じる脇街道や毛利氏時代から整備された三篠川沿いの中筋往還が重要な輸送路となりました。吉田村には郡役所や宿駅が置かれ、石見・出雲方面の街道筋には市町が形成しました。市域は農業を主体としていましたが、煙草・麻栽培、川漁、たたら製鉄などの産業も営まれました。文久2年(1862年)に幕府は浅野内証分家に対して、長州藩を牽制する目的で御本館の建設を指示し、元治元年(1864年)に藩主以下180名が吉田に移り、明治2年(1869年)の版籍奉還による解体まで存続しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治時代以降に交通や諸産業の発達に伴い各地に商業地が形成されました。平成16年(2004年)に高田郡6町が合併して安芸高田市が誕生しました。

