稀代の謀将・毛利元就

稀代の謀将と称される毛利元就は、幼少期に両親を亡くして家臣に領地を横領され、乞食若殿と呼ばれる苦労により慎重すぎるほどの洞察力を養いました。安芸国の小さな国人領主となると、謀略を駆使して大内氏や尼子氏などの巨大勢力に対して巧みに泳ぎ回りました。毛利元就は毛利両川体制を成立させて勢力を拡大し、息子たちに三矢の訓を施して一族の結束を重視して中国地方の太守に上り詰めました。
安芸毛利氏の誕生
源頼朝に仕えた鎌倉殿の13人のひとり大江広元の四男・毛利季光は、相模国毛利荘を所領としたことから毛利と称するようになりました。毛利氏は越後国と安芸国に分かれ、安芸の吉田郡山に移り住んだのが安芸毛利氏の始まりとなります。
毛利氏と安芸国人衆
安芸国には小さな国人領主が乱立する状態で、毛利氏もそのひとつでした。西部には大内義興が周防国、長門国、石見国などを勢力下におき、毛利氏は大内氏の傘下にありました。安芸国人衆たちは結束を強めるため、毛利弘元の嫡男・毛利興元は高橋元光の娘を娶り、吉川元経は毛利興元の妹と結婚しています。明応9年(1500年)に毛利弘元は隠居して毛利興元に家督が相続されましたが、同じ安芸国人衆の宍戸氏の侵攻などの対応に追われました。
毛利元就の誕生
明応6年(1497年)に毛利弘元の次男として毛利元就は生まれました。毛利元就は父の毛利弘元とともに多治比猿掛城に移り住みましたが、後見役の井上元盛に一部横領されたため、毛利弘元の側室で義母である杉大方に迎えられて養育されました。永正13年(1516年)に兄の毛利興元が死去して嫡男の幸松丸が家督を継ぐと、毛利元就が後見人となりました。毛利元就は安芸の国人領主・吉川国経の娘・妙玖と結婚して、毛利隆元、元春、隆景らが生まれました。

毛利元就誕生伝説地(鈴尾城跡)
永徳元年(1381年)に毛利元春の五男・毛利広世が福原に住み、福原姓と改めたのち福原氏の居城となりました。福原広俊の娘は毛利弘元に嫁ぎ、毛利元就を生みました。

多治比猿掛城跡
明応9年(1500年)に毛利元就の父である毛利弘元が隠居に伴い移り住んだ城で、毛利元就が毛利本家を相続して吉田郡山城に移るまで過ごしました。

毛利弘元墓
毛利元就の父である毛利弘元の墓で、菩提寺の悦叟院跡に墓が残ります。毛利弘元は大内氏と京都の細川氏との間に挟まれ悩ましい人生を過ごして酒毒で亡くなりました。

五龍城跡
宍戸氏の居城で甲立盆地西南端の丘陵に築かれました。宍戸氏は毛利氏と対立していましたが、宍戸隆家が毛利元就の娘と婚姻関係となり毛利氏の傘下となりました。
毛利元就の台頭
永正13年(1516年)に毛利興元が死去して嫡男の幸松丸が家督を継ぐと、大内氏を離反して尼子氏と結んだ武田元繁は毛利家中が混乱していると見て、毛利氏の有田城を攻めて有田中井出の戦いとなりました。毛利元就は多治比猿掛城跡から出陣して武田元繁や熊谷元直を討ち取り、毛利元就は大内義興から感状を与えられました。

銀山城跡
安芸国の守護職を与えられた武田氏が武田山に築いた城で、武田氏の本拠として鎌倉時代末期から戦国時代にかけて安芸国の政治・経済の中心地となりました。
毛利元就の家督継承
毛利元就は大内氏から尼子氏へ鞍替えし、大永3年(1523年)に尼子経久に従い大内氏の安芸の拠点である鏡山城を攻めました。毛利元就は鏡山城の重臣・蔵田直信を調略で寝返らせると、尼子軍が城に乱入して攻略に成功しました。この年に当主である幸松丸がわずか9歳で死去したため、毛利元就が毛利家の家督を相続して猿掛城から吉田郡山城に移りました。毛利元就の知略を恐れた尼子経久は、毛利元綱に家督相続させようと画策しましたが、毛利元就は腹違いの弟・毛利元網を粛正して尼子氏と距離を取るようになりました。

吉田郡山城跡
南北高時代に築かれた中国地方最大級の山城で、安芸国吉田荘の地頭として定着した毛利氏が居城としました。慶長5年(1600年)に毛利氏の防長転封により廃城となりました。
安芸国の盟主
毛利元就は家督相続に関与した尼子氏に不満を持ち、尼子氏から離反して大内氏の傘下となりました。大永5年(1525年)に大内氏は鏡山城を奪還して安芸国の影響力を強めましたが、享禄元年(1528年)に大内義興は病没して大内義隆が家督を相続しましました。毛利元就は姻戚関係を結んでいた高橋氏の侵攻を始め、享禄2年(1529年)に謀略により松尾城や藤掛城を攻略して所領を倍に増やしました。
吉田郡山城の戦い
天文6年(1537年)に尼子経久が隠居して尼子晴久が家督を相続しました。天文9年(1540年)に大内義隆は尼子方に転じた平賀興貞を討伐するため安芸頭崎城を攻め、安芸武田氏の家督争いに乗じて佐東銀山城を攻めました。安芸の尼子方は窮地に追い込まれ、尼子晴久は3万の大軍を率いて安芸に救援に向かいました。毛利元就は吉田郡山城に籠城して迎え撃ち、陶隆房の救援を得て尼子晴久を撤退させました。この戦いで佐東銀山城は陥落して安芸武田氏は滅亡しました。

松尾城跡
安芸・石見の国人衆である高橋氏の居城でした。高橋氏は尼子氏に属したため、享禄2年(1529年)に毛利氏と和智氏の連合軍に攻められて高橋氏は滅亡しました。
出雲出兵と飛躍の準備
天文10年(1541年)に尼子経久が死去すると、翌年に大内義隆は尼子晴久の討伐を始めました。毛利元就はこれに従い出陣しますが、第一次月山富田城の戦いは補給路を断たれて国人衆の離反が相次ぎ全軍撤退となりました。毛利元就は全軍撤退の殿軍を任されて激しい追撃を受けて大きな犠牲を払い、大内義隆も寵愛する大内晴持を失いました。
毛利両川体制の成立
吉川氏家中で当主の吉川興経と家臣との間で対立が深まると、次男の毛利元春を養子にしたいとの申し入れがありました。吉川興経は強制的に隠居させられて息子とともに殺害され、吉川元春が吉川家の当主となりました。強力な水軍を有する小早川氏は、竹原小早川氏と沼田小早川氏に分かれていましたが、竹原小早川氏の小早川興景が嫡男なく死去したため、天文13年(1544年)に大内義隆の要請を受けて三男・毛利隆景が竹原小早川氏の養子になりました。毛利元就は沼田小早川氏の家督相続にも関与し、沼田小早川氏の娘を小早川隆景と結婚させて小早川家を統一させました。毛利元就は吉川家と小早川家を毛利家の分家として、毛利両川体制として勢力を拡大していくことになります。
大寧寺の変
月山富田城の戦いの大敗を喫した大内義隆は、寵愛していた大内晴持を失ったこともあり、軍事や政務を文治派の相良武任に任して公家文化に没頭するようになりました。武断派の陶隆房はこれに不満を持ち、天文20年(1551年)に大内義隆を襲撃して大寧寺で自害する事件が起きました。大内義隆の姉の子で大友宗麟の異母弟である大内義長が新たな当主となり、陶隆房は陶晴賢に改名して大内家の実権を握りました。
厳島の戦い
天文22年(1553年)に毛利元就は陶晴賢の命により尼子方の旗返山城や高杉城を攻略しましたが、旗返山城の城番に陶氏の家臣が置かれたことで関係が悪化しました。翌年に石見国で吉見正頼が陶晴賢に反旗を翻すと、毛利元就も陶氏と決別して反旗を翻しました。毛利氏は佐東銀山城や己斐城などを陥落し、厳島の宮尾城を改修して陶軍との戦いに備えました。天文24年(1555年)に陶晴賢は2万の兵で厳島奪還に乗り出しますが、毛利元就は圧倒的不利を克服するため暴風雨に厳島に上陸して奇襲を仕掛け、援軍の村上水軍が陶軍の船団を焼き払い海上封鎖しました。毛利軍に奇襲された陶軍は壊滅し、陶晴賢は厳島から脱出することができず自害して果てました。

宮島(厳島)
毛利元就は圧倒的不利を解消するため、陶軍を狭い宮島に誘い込みました。毛利軍は暴風雨に上陸して奇襲をかけ、村上水軍が海上封鎖して退路を封鎖して陶軍を殲滅しました。
中国地方の覇者
毛利元就は陶晴賢を討ち取り、安芸国と備後国を所領としました。毛利元就はすぐに大内氏の周防国と長門国の攻略に取り掛かり、弘治3年(1557年)に大内義長は居城の高嶺城を捨てて勝山城に籠城しました。毛利元就は大内氏の重臣・内藤隆世の命と引き換えに大内義長を許す約束を取り付けて勝山城の開城に成功しますが、その約束を反故して長福寺の大内義長を自刃に追い込みました。大内氏を滅ぼした毛利氏は、周防国、長門国と石見国の一部を支配下に置くことになります。
尼子氏の滅亡
毛利元就は陶晴賢を討ち取り石見銀山を支配下に置きましたが、尼子晴久は石見銀山奪還を目指して山吹城を攻めました。毛利元就は宍戸隆家を救援に向かわせましたが、尼子晴久は忍原で宍戸隊を破り石見銀山を奪いました。永禄2年(1559年)に毛利元就は石見銀山奪還に着手しますがこれに失敗し、撤退する途中の降露坂の戦いで大きな被害を受けました。永禄3年(1561年)に尼子晴久が急死して尼子義久が家督を継ぐと、尼子義久は毛利元就と和議を結び、石見銀山を含む石見国を毛利氏に譲りました。これにより尼子氏に与する国人衆の多くが離反し、これを好機と捉えた毛利元就は和議を破棄して尼子攻めを行いました。尼子攻めの途中で毛利隆元が急死する不幸がありましたが、永禄9年(1566年)の第二次月山富田城の戦いで尼子義久は降伏しました。毛利元就は尼子義久ら尼子一族の命を保証する代わりに安芸に幽閉し、戦国大名としての尼子氏は滅亡しました。

毛利隆元墓
毛利元就の長男である毛利隆元は、永禄6年(1563年)に大友氏と和議を結んで出雲に向かう途中に急死し、毛利元就と兄弟たちは常栄寺を建立して菩提を弔いました。

尼子屋敷跡
尼子義久、倫久、秀久は毛利元就に攻められ、永禄9年(1566年)に降伏して内藤家に預けられ、天正17年(1589年)に毛利氏家臣としてこの地に住みました。
毛利元就の最後
毛利元就の長男・毛利隆元の死により、家督は毛利隆元の子である毛利輝元が継ぎました。毛利元就は若い毛利輝元の後見人として引き続き毛利氏を率い、元亀2年(1571年)に死去するまで毛利輝元の懇願により隠居せずに後見人を続けました。毛利元就が死去してからも毛利元就が残した三矢の訓により、毛利輝元の叔父である吉川元春や小早川隆景は毛利輝元を補佐し、毛利氏は激動の戦国時代を生き抜いていきました。

毛利元就公火葬場伝承地
元亀2年(1571年)に毛利元就は75歳で亡くなり、その七日後に竹原妙法寺の住持・嘯岳鼎虎禅師を導師として御里屋敷で火葬されたと伝えられています。

毛利元就および一族の墓
毛利元就の三回忌に際して毛利輝元が建立した洞春寺跡にあります。明治2年(1869年)に毛利元就のほか毛利興元や幸松丸、杉大方や毛利隆元夫人の墓が移葬されました。
