日高郡

日高郡は和歌山県のほぼ中央に位置し、北東部は紀伊山地の西端の山地が広がり、西は紀伊水道に面しています。黒潮の影響を受けて温暖な気候をしており、みなべ町は日本最大の梅の産地として日本一の梅の里と呼ばれます。熊野灘の豊かな海はクエなどの高級魚が獲れ、白い石灰岩に囲まれた白崎海岸は日本のエーゲ海とも称されます。
概要
- 面積
- 655.39km2
- 人口
- 47,668人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 美浜町、日高町、由良町、印南町、みなべ町、日高川町
- 地図
特集
歴史
紀伊国は平安時代後期から室町時代にかけて寺社勢力や国人衆が独自の勢力を誇りました。湯浅氏は一族を各地に配置して湯浅党として勢力を誇りましたが、豊臣秀吉の紀州統一で滅亡しました。江戸時代は紀州徳川藩の支配下となり、現在に繋がる整備が進められました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
無人島の鷹島から縄文時代前期の遺物と縄文時代中期の住居跡や製塩跡が見つかり、縄文時代後期の田井遺跡から土器片などが出土しました。弥生時代は、鷹島遺跡から甕形土器が出土し、上中野Ⅱ遺跡からは、サヌカイトの石鏃と紡錘車が発見されています。

千里の浜
1キロ以上にわたり自然の白砂青松が続く美しい海岸で、伊勢物語などの古い文献にも登場します。5月中旬から8月下旬にかけてアカウミガメが産卵することでも知られます。
古墳時代、飛鳥時代
紀氏の一族やそれに関連する豪族がこの地を治めていたと推測されています。古墳時代後期に築かれた横穴式石室を持つ円墳で構成されるじょう穴古墳や長山古墳群が残されています。

切目崎塚穴
崎山古墳群は21基の円墳からなりますが、崎山14号墳のみが現存します。崎山14号墳は切目崎塚穴とも呼ばれる円墳で、6世紀後半に築造されたと考えられています。

向山古墳
向山の尾根伝いに形成した8基の古墳から成る向山古墳群が形成しました。向山古墳はその1号墳で、古墳時代終末期の7世紀に築造されました。

辨財天山古墳
向山北西の尾根に形成した直径10メートルの円墳です。両袖式横穴式石室があり、壁に接して結晶片岩の中央壁を共有した箱式石棺が2組設けられています。

岩代の結松
有間皇子は孝徳天皇の皇子でしたが、斉明天皇4年(658年)に謀反の罪に問われました。有間皇子は護送される途中に岩代の松枝を結んで身の無事を祈り2首の歌を詠みました。
奈良時代、平安時代
大宝元年(701年)に文武天皇の勅願により道成寺が建立しました。平安時代中期から上皇や貴族などが盛んに熊野詣を行い、道成寺には熊野詣で訪れた僧・安珍に恋した清姫が裏切られた怒りで大蛇となり、安珍を道成寺の鐘の中で焼き殺した伝説が残されています。

道成寺境内
大宝元年(701年)に創建した和歌山県最古の寺院です。文武天皇の妻で聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより、藤原宮子の故郷に義淵僧正が開山したとされます。
鎌倉時代、南北朝時代
広荘や由良荘は京都蓮華王院の寺領となりました。由良荘の七条細工紀太が年貢の搾取を謀り、領家の藤原範季が院庁に訴えて一味が処分される事件が起こりました。平安時代後期に日高地方を拠点として湯浅氏は、鎌倉幕府の御家人となり日高地方を支配しましたが、承久3年(1221年)の承久の乱で、湯浅一族の広弥太郎宗正は後鳥羽上皇側についたため、広家は滅亡に追い込まれました。南北朝の動乱で湯浅氏は南朝方となりますが、天授5年(1379年)に北朝の山名義理が湯浅城を攻め落として湯浅党は滅亡しました。
室町時代、安土桃山時代
紀伊国守護に山名義理が任命されましたが、山名義理は幕府の命に背いて大内義弘に討たれました。幕府は大内氏の勢力拡大を恐れて畠山基国に命じて大内氏を攻め、応永7年(1400年)に畠山基国が紀伊国を与えられました。紀伊国は畠山氏の領国ではありましたが、寺社勢力や湯川氏らの国人衆が独自の勢力を誇りました。大永2年(1522年)に湯川直光が野辺氏とともに畠山尚順を攻め滅ぼしましたが、天正13年(1585年)に羽柴秀吉が紀州統一を果たしました。
江戸時代
慶長5年(1600年)に浅野幸長が入封し、元和5年(1619年)に徳川家康の十男・徳川頼宣が初代紀州藩主となりました。徳川頼宣は畠山氏の居館跡に観魚亭を建てて別邸とし、広浦和田に大波止場を築造して船の出入りを活発化しました。さらに煙樹ヶ浜の松林を本格的に整備して米作地帯の塩害や風害を防ぎました。江戸時代中期に印南の漁民・角屋甚太郎がかつお節の製法・燻乾法を発明しましたが、天明の大飢饉で印南漁民がカツオ漁を引き上げてかつお節は製造されなくなりました。紀州藩十代藩主徳川治宝は、京都より有名な陶工を招いて偕楽園御庭焼を始め、藩の御用窯として紀州最大の南紀男山を開きました。

徳本上人誕生遺跡(誕生院)
天保6年(1835年)に紀州藩主徳川治宝の後援により建てられた徳本上人の記念碑です。徳本上人は念仏行者として日本全国を渡り歩き、流行神と呼ばれました。

尊光寺
難行苦行に明け暮れた徳本上人が水行などを行う第一苦行地でした。徳本上人の弟子・本洞和尚が尊光寺を創建し、天保6年(1835年)に紀伊藩主の援助で改築されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治元年(1868年)の神仏分離廃仏毀釈が行われ、仙光寺薬師院は廃止されて明王院も急速に衰退しました。明治4年(1871年)の廃藩置県で和歌山県が誕生しました。大正4年(1915年)に始まるケシ栽培は、大正末期から戦時中までに最盛期を迎え、日本最大の生産地となりました。昭和4年(1929年)に国鉄紀勢西線が開通しました。昭和21年(1946年)の昭和南海地震や昭和28年(1953年)の大水害で大きな被害を受けました。
熊野参詣道(紀伊路)
紀伊路は鳥羽離宮から淀川を下り、河内国、和泉国を通り雄ノ山峠を越えて紀伊国に入ります。現在の和歌山市から日前宮、紀三井寺、長保寺、道成寺などの社寺、白鳥の関や吹上の浜などの景勝地を巡り田辺まで至ります。田辺からは山中を進む中辺路と海岸線を通る大辺路に分かれます。

若一王子神社境内
かつて比井湊から近い場所にあり、熊野詣で訪れた参詣者が休憩や遥拝を行いました。宝暦7年(1757年)の本殿修築の際、境内山林西南隅から経塚が見つかりました。

高家王子跡(内原王子神社)
有田から日高へ通じる熊野参詣道は鹿ヶ瀬峠を越える難所で、峠越えして到着するのが高家荘の総社である高家王子でした。石垣に囲まれた境内は広く、本殿や拝殿も立派です。

中山王子跡(王子神社)
熊野九十九王子のひとつで、中山の王子ケ谷の周辺に鎮座していました。山王子社の旧地は不明ですが、江戸時代中期以前に現在の位置に移されました。

岩代王子跡(西岩代八幡神社)
東岩代川と西岩代川の両河口の間に位置し、太平洋に面している王子です。安永5年(1776年)に再建された本殿は、熊野九十九王子のなかでも古いです。

三鍋王子跡
後鳥羽上皇が絹六疋、綿百五十両、馬三匹を奉納した特別な配慮がなされた王子です。明治10年(1877年)に鹿島神宮に合祀され、現在は小さな祠が残ります。

