ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

有田郡

和歌山県有田郡の西広海岸

有田郡は和歌山県の北西部に位置します。東側の紀伊山地から有田川が西流し、紀伊水道に注いでいます。温暖な気候に恵まれてミカンをはじめとする柑橘類の栽培が盛んで、海岸部では花卉栽培が行われます。

概要

面積
437.96km2
人口
42,445人(2022年2月1日)
含む町村
湯浅町、広川町、有田川町
地図

特集

和歌山県田辺市の紀伊山地

紀伊山地の霊場と参詣道

紀伊山地は自然信仰の対象として金峯山、高野山、熊野三山の山岳霊場が生まれました。それぞれの霊場は参詣道で結ばれ、日本の宗教文化の発展に影響を与えました。

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歴史

平安時代後期から南北朝時代にかけて湯浅氏が支配しました。湯浅氏は熊野詣に訪れる上皇や貴族に自身の館を提供することで基盤を固めました。鎌倉時代に湯浅は径山寺味噌を製造する過程で醤油が生まれ、醤油醸造の発祥の地となりました。江戸時代に安政の大津波を受けて浜口梧陵が広村堤防を築いたため、近代防災の先駆けの地となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

有田川下流域は旧石器時代を皮切りとする遺跡が認められています。藤並地区遺跡ではナイフ形石器などが発見されており、野田地区遺跡からも石核などが出土しています。縄文時代には奥Ⅱ遺跡や土生池遺跡などから早世期の有舌尖頭器などが出土し、野田地区遺跡から後期の石棒などが出土しています。弥生時代には田殿尾中遺跡から中期から後期の環濠集落跡が認められています。

古墳時代、飛鳥時代

古墳の数は少ないものの4基の古墳からなる天満古墳群が築かれ、このうち1号墳の泣沢女の古墳は終末期に築造された円墳で、巨石積みの横穴式石室で構築されています。

和歌山県有田郡の泣沢女の古墳(藤並神社)

泣沢女の古墳(藤並神社)

7世紀前半の古墳時代終末期に築造された有田川流域最大の円墳で、和歌山県内では珍しい巨石を使用した横穴式石室です。被葬者は12歳前後の女性と推定されています。

奈良時代、平安時代

有田川流域は阿提郡と称しましたが、大同元年(806年)に在田郡に改称されました。瓦や須恵器を焼成した窯跡も多く、土生池窯跡などが見つかりました。平安時代末期から南北後時代に湯浅党の惣領である湯浅氏が大きな勢力を誇りました。湯浅宗重は熊野道に町場を開発し、沿岸部に屋敷を設けて海上交通を掌握し、熊野詣で訪れる上皇や貴族の宿場として自身の館を提供して中央との結びつきを強めました。平治元年(1159年)の平治の乱では、湯浅宗重が熊野詣の途中にある平清盛を助けて平家の有力な家人となりました。

鎌倉時代、南北朝時代

文治2年(1186年)に湯浅宗重は鎌倉幕府の御家人となり本領を安堵されました。湯浅氏は荘園の寄進や一族子弟を中央の寺院に送り込み、上覚や明恵をはじめとした湯浅党諸氏の子弟は中央での文化的・政治的・経済的窓口として重要な役割を担いました。さらに子息に有田郡一帯の所領を分与して一門を構成し、婚姻関係や養子関係を結んで在地領主連合体の湯浅党を結成しました。

湯浅党の滅亡

湯浅党は南朝勢力の中核として抗戦していましたが、康暦元年(1379年)に紀伊国守護の山名義理が藤並城や湯浅城などの湯浅党の拠点を攻略して、その翌年に有田川上流域の阿瀬川城が落城したことで湯浅党の支配は終焉を迎えました。

和歌山県有田郡の湯浅党城館跡(湯浅城跡)

湯浅党城館跡(湯浅城跡)

13世紀に築城された湯浅党の城館跡で、湯浅湾と熊野道を掌握する拠点でした。後南朝の勢力が義有王を奉じて拠点になりましたが、山名義理に攻略されました。

和歌山県有田郡の湯浅党城館跡(藤並館跡)

湯浅党城館跡(藤並館跡)

藤並氏の始祖・藤並十郎親は、湯浅宗重の末娘を妻に迎えて湯浅党に加わりました。藤並氏は鎌倉時代を通して地頭職を相伝しましたが、山名義理に攻略されました。

和歌山県有田郡の明恵上人遺跡刈藻島

明恵上人遺跡刈藻島

明恵上人は建久年間に道忠と喜海を伴い刈藻島に渡り洞穴を草庵に擬して修行し、建暦3年(1213年)にも刈藻島に渡り宝楼閣陀羅尼を読誦しました。

和歌山県有田郡の明恵紀州遺跡卒都婆

明恵紀州遺跡卒都婆

嘉禎2年(1236年)に明恵上人の弟子の喜海らがその遺徳を偲んで建てた卒塔婆のひとつで、康永3年(1345年)に弁迂が湯浅一族の援助で石造の卒塔婆に改めました。

和歌山県有田郡の東大谷経塚遺跡附和鏡

東大谷経塚遺跡附和鏡

宝篋印塔を伴う経塚で、基壇の下の経壺から経巻や和鏡が納められていました。経壺は鎌倉時代に古常滑窯で焼かれたもので、和鏡は鎌倉時代最盛の松喰鶴鏡でした。

和歌山県有田郡の奥の宝塔及び宝篋印塔

奥の宝塔及び宝篋印塔

文中2年(1373年)に建立された2基の宝篋印塔で、吉備地区に残されています。この地ははかつて堂の芝といい、七堂伽藍が設けられていた廃寺がありました。

室町時代、安土桃山時代

畠山氏が紀伊国守護になりますが、紀伊国は国人衆や寺社勢力が乱立する状況にありました。畠山政長は現在の養源寺に畠山御殿を築いて拠点として町を整備しました。畠山氏の家督争いを端緒として応仁の乱が勃発すると、紀伊の勢力も東西に分かれて戦いとなりました。大永2年(1522年)に下克上で畠山尚順が急襲され、居城の高城城(広城)が湯浅直光により落城しました。湯浅を統治した白樫氏は羽柴秀吉に内応して紀州征伐で所領を安堵されましたが、元和15年(1615年)に大阪城が落城して豊臣氏の滅亡により白樫氏も途絶えました。

和歌山県有田郡の鳥屋城址

鳥屋城址

応永7年(1399年)に紀伊国守護・畠山基国の弟・畠山満国が入城して鳥屋城と改めました。有田郡内の拠点として畠山氏や守護代の神保氏らが城主を務めました。

和歌山県有田郡の宗祇法師屋敷跡

宗祇法師屋敷跡

宗祇法師は西行や松尾芭蕉と並ぶ漂泊の詩人で、応永28年(1421年)に紀伊国藤並荘黍野に生誕した伝承があります。敷地内には宗祇法師の産湯の井戸があります。

江戸時代

慶長5年(1600年)に紀州に浅野幸長が入り領内の検地を実施しました。元和5年(1619年)に徳川家康の十男・徳川頼宣が初代紀州藩主となりました。鎌倉時代に起源を遡る湯浅の醤油醸造は大阪などに出荷されるようになり、紀州藩の保護を受けてさらに隆盛しました。寛文3年(1663年)の大火、安政元年(1854年)や安政3年(1856年)の地震津波により大きな被害を受けました。濱口梧陵は大津波の際に稲むらに火をかけて村人を高台に逃し、大津波を防ぐ目的で広村堤防を築造しました。

和歌山県有田郡の蘭島及び三田・清水の農山村景観

蘭島及び三田・清水の農山村景観

大庄屋笠松左太夫が集落・農地開発を行い、明暦元年(1655年)に有田川支流の湯川川に井関を設け、湯と称する灌漑水路網を整備して水田化が進展しました。

和歌山県有田郡の深専寺「大地震津波心得の記」碑

深専寺「大地震津波心得の記」碑

安政元年(1854年)に発生した大地震による津波被害の教訓を残すため、安政3年(1856年)に深専寺の承空上人の指導で深専寺の山門の脇に建立した石碑です。

和歌山県有田郡の広村堤防

広村堤防

安政元年(1854年)の大津波を受けて濱口梧陵が築いた堤防です。安政5年(1858年)完成し、昭和21年(1946年)の昭和南海地震で津波被害を防ぎました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で和歌山県が誕生し、明治12年(1879年)に湯浅に置かれていた有田郡民政局が有田郡役所となりました。大正5年(1915年)に有田鉄道が開通し、昭和2年(1927年)には国鉄紀勢線が開通しました。昭和21年(1946年)の昭和南海地震の津波来襲では、広村堤防が防護する効果を発揮しましたが、それ以外の地域は大きな被害を受けました。

和歌山県有田郡の耐久舎

耐久舎

嘉永5年(1852年)に濱口梧陵、濱口東江、岩崎明岳らが開いた私塾・稽古場を前身とし、慶応2年(1866年)に安楽寺の東隣に移転して耐久舎と命名されました。

和歌山県有田郡の濱口梧陵墓

濱口梧陵墓

濱口梧陵は耐久舎を創設し、安政の大津波で村民救済に奔走して私財を投じて広村堤防を完成させましたが、明治18年(1885年)に視察中のニューヨークで死去しました。

和歌山県有田郡の濱口梧陵碑

濱口梧陵碑

明治26年(1893年)に濱口梧陵の遺徳を称えるために子息の濱口勤太が建立したもので、勝海舟の撰文と題額の揮毫により濱口梧陵の事績や徳行を称えた文が刻まれています。

熊野参詣道(紀伊路)

紀伊路は鳥羽離宮から淀川を下り、河内国、和泉国を通り雄ノ山峠を越えて紀伊国に入ります。現在の和歌山市から日前宮、紀三井寺、長保寺、道成寺などの社寺、白鳥の関や吹上の浜などの景勝地を巡り田辺まで至ります。田辺からは山中を進む中辺路と海岸線を通る大辺路に分かれます。

和歌山県有田郡の勝楽寺境内(熊野参詣道紀伊路)

勝楽寺境内(熊野参詣道紀伊路)

平安時代末期に創建した寺院で、鎌倉時代にかけて隆盛した湯浅氏が保護しました。紀伊路を整備した湯浅氏は、勝楽寺の境内を経由して久米崎王子へと道を整備しました。

和歌山県有田郡の久米崎王子跡(顕国神社)

久米崎王子跡(顕国神社)

鎌倉時代以降は荒廃したようで、江戸時代に徳川頼宣が社殿を再興しましたたが、明治時代に顕国神社に合祀され、現在は旧社地に記念碑を残しているのみでです。

和歌山県有田郡の鹿ヶ瀬峠

鹿ヶ瀬峠

紀伊路最大の難所で、多くの文献で触れられている険しい峠です。標高350メートルに大峠があり、その下に小峠と呼ばれる鞍部があり、さらに長大な石畳道を下ることになります。