新宮市

新宮市は紀伊半島東部に位置し、和歌山県の東端部にあたります。熊野灘に面して北東部を流れる熊野川が三重県との県境を成しています。黒潮の影響などで温暖で、降水量が多いことで知られています。温暖多雨な気候は豊かな森林を育み、森林が市域の9割以上を占めています。
概要
- 面積
- 255.23km2
- 人口
- 26,788人(2021年11月1日)
- 市の木
- ナギ、熊野杉、天台烏薬
- 市の花
- ハマユウ、川さつき
- 地図
特集
歴史
熊野三山の社務を統括する熊野別当が居所を構えて大きな勢力を誇りました。上皇や天皇、貴族のあいだで熊野詣が盛んに行われると、熊野速玉大社の門前町として大いに栄えました。江戸時代に城井藩家老・水野氏が領主となり、新宮城とその城下町が整備されました。明治時代には熊野川上流で伐採された木材の集散地として変貌を遂げました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代に遡る遺跡は確認されていません。縄文時代の土器や石器は各所から出土しており、速玉大社境内遺跡や速玉大社御旅所遺跡から縄文時代中期の土器が出土しいます。弥生時代前期の遺跡は確認されていませんが、弥生時代中期から熊野川沿いの自然堤防で集落が形成され、阿須賀神社遺跡や速玉大社境内遺跡で弥生時代中期の遺物が出土し、阿須賀神社遺跡から弥生時代後期の遺物が出土しています。

瀞八丁
奈良県・三重県・和歌山県にまたがる大渓谷で、硬い岩盤が浸食により形成しました。奥瀞、上瀞、下瀞に区分され、中でも下瀞は断崖や奇岩群が続く瀞八丁と呼ばれます。
古墳時代、飛鳥時代
新宮市内では古墳は1基も確認されていません。紀伊半島南部では東牟婁郡那智勝浦町の下里古墳が存在するのみです。
奈良時代、平安時代
熊野信仰の隆盛により権現山では如法堂経塚や庵主池経塚などの多くの経塚が確認されています。新宮下本町遺跡のある丹鶴山一帯は熊野参詣道沿いに位置する交通の要衝で、平安時代頃には熊野別当が別邸を築きました。平治の乱により源義朝の末弟・源行家(新宮十郎義盛)は姉である鳥居禅尼のもとに身を寄せて新宮に居住しており、治承4年(1180年)の以仁王の平家討伐の令旨が発せられると新宮別当家は源行家を擁して挙兵して田辺別当家の湛増を源氏方に取り込みました。湛増は熊野水軍を率いて壇ノ浦の戦いで活躍し、源氏を勝利に導きました。

新宮下本町遺跡
熊野川河口近くの自然堤防に立地する中世の港湾関係遺跡です。地下式倉庫が多数確認されており、熊野三山による太平洋航路を利用した各地との交易が行われました。
鎌倉時代、南北朝時代
承久の乱で熊野別当が力を失うとその係累の衆徒らが武力集団化していき、熊野三山の上位の役僧である宮崎氏が新宮城の二ノ丸を居館としたとされます。南北朝の動乱では熊野三山は中立の立場をとりましたが、熊野国人衆は南朝と北朝に分かれて戦いました。

磨崖名号碑(伝一遍上人名号石)
月輪中に阿弥陀三尊の梵字、その下に蓮台に載る六字名号が薬研彫されている。一遍上人の瓜書の遺跡と伝承されますが、梵字の書体から鎌倉時代のものと考えられています。

一遍上人名号碑建立之地
時宗の宗祖・一遍上人が熊野本宮に参詣後に、自ら刻んだ阿弥陀名号石塔を建てて吉祥塔と名付けたとされる名号碑です。宝暦10年(1760年)に他阿一海が保護しました。
室町時代、安土桃山時代
戦国時代に堀内氏の力が台頭して神倉山の山麓に居館を構えたとされます。天正9年(1581年)に堀内氏善は織田信長から牟婁郡神領を安堵され、天正13年(1585年)の豊臣秀吉の南征で豊臣秀吉に臣従して熊野地方の支配を任されました。新宮市街地には堀内氏屋敷跡のほか別当屋敷跡や新宮十郎(源行家)屋敷跡、新宮周防守屋敷跡などが残されています。熊野川北岸には鵜殿庄司の鵜殿氏が本拠を構え、その上流にある鵜殿城跡は熊野川の見張場として機能していました。
江戸時代
慶長6年(1601年)に紀州藩主となる浅野幸長の重臣・浅野忠吉が丹鶴山に新宮城の築城を始め城下町を整備しました。元和元年(1615年)の一国一城令で新宮城は廃城となりますが、元和4年(1618年)に再び築城が認められています。浅野氏にかわり徳川頼宣が紀州藩主になると、家老の水野重仲が新宮城を完成させました。新宮の河川敷には川原町が形成し、新宮城下町の経済活動のみならず熊野川の舟運で山間部の人びとの生活を支えました。

新宮城跡
熊野川河口部南岸の独立丘陵にあり、河川・海上の両水上交通を押さえました。浅野忠吉が築城を開始し、紀州徳川藩附家老の水野重仲が城主となりました。

水野家墓所
新宮城の南南西の小丘陵にある新宮城主水野家の墓所です。熊野産の黒雲母花崗斑岩で作られた新宮城主歴代の墓碑と親族等の墓碑16基が参道に面して立ち並んでいます。

書写妙法蓮華印塔(本広寺)
新宮城主・水野家の菩提寺である本廣寺境内にあります。茶道江戸千家の流祖・川上不白(宗雪)が、寛政9年(1797年)に先祖諸霊供養のために造営した一字一石経塚です。

神倉山付石段「下馬」標石
神倉神社の入口にある熊野信仰を今に伝える石碑で、寛文12年(1672年)に奥州の大銀与兵衛盛道が熊野三山に7度参詣した記念に寄進したものです。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で新宮県となり、4か月後に和歌山県に統合されました。明治22年(1889年)の十津川大水害で大きな被害を受けました。明治時代後半に熊野川河口部に大規模な貯木場が設けられましたが、熊野川河口は砂が堆積して閉塞を繰り返したため、大正2年(1913年)に勝浦まで鉄道が開通して勝浦港から運ばれるようになりました。昭和8年(1933年)に東牟婁郡新宮町・三輪崎町が合併して新宮市が発足しました。
熊野参詣道(中辺路、伊勢路、熊野川)
熊野三山へは多くの参詣道が開かれ、新宮市には3つの参詣路が結ばれています。伊勢神宮から東海岸沿いを通る伊勢路、紀伊半島の西海岸を通る紀伊路は田辺で山中を進む中辺路、海岸沿いを通る大辺路があります。参詣道には熊野権現の分身である御子神を祀る王子があり、熊野詣を行う人びとは王子を1つ1つ参拝し、供え物と経をあげることで旅の無事と願いの成就を祈念して熊野へと向かいました。

神倉神社
熊野三所大神が最初に降臨した場所で、ゴトビキ岩を御神体としています。神武天皇が東征で登った天磐盾と言われ、ここから八咫烏の道案内で熊野・大和地方を目指しました。

熊野速玉大社
熊野本宮大社、熊野那智大社とともに熊野三山を構成する大社で、神倉神社の元宮に対して新宮と呼ばれます。海に近いことから、海の民の信仰が派生した説があります。

熊野参詣道(中辺路)
京都あるいは西日本から熊野三山へ参詣する道筋のうち最も頻繁に使われた経路で、田辺から東に転じて山中に分け入り熊野三山を巡る大部分が険しい山道です。

熊野参詣道(伊勢路)
伊勢神宮と熊野三山を結ぶ参詣道で、10世紀後半には成立していました。七里御浜から熊野速玉大社に至る七里御浜道と内陸部を熊野本宮大社へ向かう本宮道があります。

熊野参詣道(熊野川)
熊野速玉大社を参詣は、熊野川を船で下るのが一般的でした。上皇や貴族は熊野本宮大社を参拝後に熊野川を川舟で下り、熊野速玉大社・熊野那智大社を目指しました。

浜王子跡
熊野御幸では熊野本宮大社から熊野川を舟で下り、熊野速玉大社を訪れて熊野那智大社へ向かいました。昭和21年(1946年)の昭和南海地震で住宅地と化しました。

佐野王子跡
浜王子から海岸線を進み、王子橋が見えるあたりに佐野王子はありました。王子橋の下を流れる王子川は祓川とも呼ばれ、この川の祓所で熊野詣の人びとは心身を清めて那智山に向かいました。

