有田市

有田市は和歌山県の北西部に位置し、西は紀伊水道に面して南北に山地が広がります。有田川が東西を流れて紀伊水道に注ぎます。温暖で過ごしやすい気候を活かして有田みかんの産地となり、明治時代に除虫菊の商業的栽培に成功したことで蚊取り線香の発祥の地となりました。紀伊水道の豊かな海は太刀魚が全国一の漁獲量を誇ります。
概要
- 面積
- 36.83km2
- 人口
- 25,859人(2022年2月1日)
- 市の木
- シイ
- 市の花
- ミカン
- 地図
特集
歴史
平安時代後期に湯浅氏が朝廷や平家と関係を強め、鎌倉時代は御家人として支配しました。江戸時代に紀州徳川家の直轄地となり、みかん栽培や太刀魚の一本釣りが盛んになりました。明治時代には除虫菊の栽培が導入され、蚊取り線香発祥の地となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
地ノ島遺跡から人の営みを示す縄文土器の破片が見つかりました。有田川流域では縄文遺跡が点在し、坂の下遺跡からは縄文時代後期の土器や石器、21基からなる貯蔵穴が見つかりました。弥生時代には弥生時代に祭器として使用されていた銅鐸が千田地区で発見され、対の浜では製塩遺構が発見されています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳の数はあまり多くありませんが、椒古墳、宮原古墳のほか6世紀中頃には一本松古墳が造営されました。

椒の古墳
5世紀に築造された有田地方唯一の前方後円墳です。現在は後円部のみ保存されていますが、前漢時代の鏡や刀などの遺物が多数みつかりました。未公開です。
奈良時代、平安時代
嘉応元年(1169年)に宮崎郷を領した宮崎定範が野村(箕島)に城を築きました。平安時代末期から南北後時代にかけて湯浅党の惣領である湯浅氏が支配するようになり、熊野詣に訪れる上皇や貴族に館を提供するなど関係を強めて大きな勢力を誇りました。平治元年(1159年)の平治の乱で湯浅宗重が熊野詣の途中にある平清盛を助けて平家の有力な家人となり、文治元年(1185年)の屋島の戦いに敗れた平忠房が湯浅宗重のもとに身を隠し、集結した平家残党が岩室城に立て籠もり3カ月にわたり源氏の阿波成長と戦いました。
鎌倉時代、南北朝時代
文治2年(1186年)に湯浅宗重は鎌倉幕府の御家人となり本領を安堵されました。天授元年(1375年)に創建した称名寺は湯浅党のひとつ保田城主貴志氏の菩提寺となりました。
室町時代、安土桃山時代
畠山氏が紀伊国守護になりますが、紀伊国は国人衆や寺社勢力が乱立する状況にありました。畠山氏の家督争いを端緒に応仁の乱が勃発すると、紀伊の勢力も東西に分かれて戦いとなりました。紀ノ川下流域の土豪や有力農民らは雑賀一揆として地縁的な組織を形成し、雑賀衆と呼ばれる共同体として活動するようになりました。天正13年(1585年)には羽柴秀吉が紀州を制圧し、秀吉の弟・羽柴秀長に与えられました。
江戸時代
関ヶ原の戦いで戦功を挙げた浅野幸長が入国したのあと、元和5年(1619年)から徳川家康の十男・徳川頼宣が支配しました。天正2年(1574年)にの伊藤孫右衛門が肥後国八代より苗木を持ち帰り栽培が始められました。

糸我村の一里塚
江戸時代初期に紀伊藩が熊野街道を整備したとき、街道の道しるべとして1里ごとに築かれた塚です。東西の塚のうち西側の塚のみが残り、塚の上にはクロマツが植えられています。

紀州みかん最初の地附紀州柑橘剏祖之碑
伊藤孫右衛門が肥後国から苗木を持ち帰り栽培が始まりました。慶長元年(1596年)頃には安田荘や田殿荘にも植えられて大阪などで高値で取引されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で和歌山県が誕生しました。明治14年(1881年)頃に日本にもたらされた防虫菊の粉が明治20年代から栽培が始められ、金鳥の創設者上山英一郎らは除虫菊の商業的栽培に成功し、蚊取り線香の発祥の地となりました。大正5年(1915年)に有田鉄道が開通し、昭和2年(1927年)には国鉄紀勢線が開通しました。昭和31年(1956年)に有田市が誕生しました。
熊野参詣道(紀伊路)
紀伊路は鳥羽離宮から淀川を下り、河内国、和泉国を通り雄ノ山峠を越えて紀伊国に入ります。現在の和歌山市から日前宮、紀三井寺、長保寺、道成寺などの社寺、白鳥の関や吹上の浜などの景勝地を巡り田辺まで至ります。田辺からは山中を進む中辺路と海岸線を通る大辺路に分かれます。

糸我峠
七曲りと呼ばれるつづら折りの道がある峠道です。途中には蕪坂塔下王子社、山口王子社、糸我王子社跡や後鳥羽上皇が昼食を摂られた芝昼養所、宮原渡し場跡などがあります。

