ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

舞鶴市

京都府舞鶴市の舞鶴湾

舞鶴市は京都府の北部に位置し、北はリアス式海岸を形成して若狭湾に面しています。山地や丘陵が取り囲むような地形的特徴があり、湾奥部に市街地が発達しました。市街地は大きく2つに分類され、田辺藩の城下町・商港から発展した西地区と海軍の軍港から発展した東地区に分かれています。

概要

面積
342.13km2
人口
78,927人(2021年11月1日)
市の木
ケヤキ
市の花
ツツジ
市制記念日
5月27日
地図

特集

京都府舞鶴市の赤レンガパーク

舞鶴の海軍鎮守府

明治時代に欧米列強の脅威に対抗する海軍力の増強が必要となり、天然の良港である舞鶴に鎮守府が設置されました。舞鶴鎮守府は日本海沿岸の防備を担いました。

詳しくみる

歴史

安土桃山時代に細川藤孝が築城した田辺城の別名・舞鶴城から舞鶴の地名となりました。西舞鶴は田辺城の城下町として商業が活発化しましたが、明治時代に海軍が舞鶴鎮守府を設置して東舞鶴が軍港都市として整備されました。昭和時代に西舞鶴を中心とする舞鶴市と軍港都市の東舞鶴市が合併して舞鶴市となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

縄文時代の海面上昇で多くの入江が形成し、古代の人びとは生活基盤を置くようになりました。縄文時代前期には由良川流域の志高遺跡や大浦半島の浦入遺跡などで生活の痕跡が確認されています。浦入遺跡からは丸木舟1艘が発見され、隠岐の黒曜石や北陸産の蛇紋岩製耳飾りや土器なども発見されています。縄文時代中期や後期には田畔遺跡、荒倉遺跡、坪の内遺跡なども確認され、桑飼下遺跡からは48基の炉跡が発見されています。弥生時代末期には10カ所以上の集落が形成し、水稲耕作が行われました。

古墳時代、飛鳥時代

弥生時代から古墳時代にかけて、由良川下流域を見渡す山の上に由良川の水運を掌握した首長たちが墳墓を築きました。境谷の丘陵地で発見された切山古墳は、4世紀後半に築かれた舞鶴で最古段階の大型古墳で、真赤に彩られた棺内から人骨とともに鉄剣など副葬品が出土しています。市域の300基を超す古墳の多くは6世紀後半以降に築かれ、横穴式石室を有しています。5世紀から6世紀にかけて灌漑水路などの技術がもたらされ、浦入遺跡から鉄を加工した最先端の鍛冶炉が見つかりました。

奈良時代、平安時代

和銅6年(713年)に丹波国から分割されて丹後国が置かれました。延暦13年(794年)に都が平安京に移されて距離的に近づいたことで用明天皇の第3皇子麻呂子親王が多禰寺を開基し、薬子の変に連座し廃太子となる高岳親王が金剛院を開基しました。平安時代後期に災害や飢饉が多発し、末法思想により油江や天台などに経塚が造営されました。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉時代を代表する運慶と快慶による仏像が金剛院と松尾寺に残されています。建武4年(1337年)に北朝方の吉川経久が丹後を攻め、荒張城で攻防戦が行われた記録が残されています。

室町時代、安土桃山時代

丹後守護の一色氏と若狭守護の武田氏との争いが絶え間なく続き、永正14年(1517年)には一色氏守護代の延永春信が武田・朝倉・朽木の連合軍に攻められて敗走しました。天正8年(1580年)に丹後国は細川藤孝(幽斎)の所領となり、支城として田辺城が築かれました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは福知山城主小野木重勝らに攻められ、細川幽斎は田辺城に籠城して戦いました。吉原漁師は細川幽斎を支援したことで、漁業の特別な権利を与えられて沿岸漁業が盛んとなりました。

京都府舞鶴市の田辺城跡

田辺城跡

本丸を囲んで二ノ丸、三ノ丸がある輪郭式の平城で、東に伊佐津川、西に高野川、南は湿地、北は海に接した要害の地に築かれています。

京都府舞鶴市の金剛院庭園

金剛院庭園

天長6年(829年)に平城天皇の第三皇子・高岳親王が創建した金剛院にある庭園です。細川藤孝(幽斎)が手掛けたもので、舞鶴屈指の紅葉の名所として知られます。

江戸時代

関ヶ原の戦いによる国替えで細川氏に代わり京極高知が丹後国に入国しました。京極高知はたびたび洪水を起こしていた伊佐津川の瀬替えを完成させ、慶長7年(1602年)に検地を行いました。元和8年(1622年)に丹後国は宮津藩、田辺藩、峰山藩に分けられました。

牧野田辺藩の治世

寛文8年(1668年)に京極氏が但馬国豊岡へ国替えとなり牧野親成が入国しました。田辺藩は参勤交代などで財政が苦しくなり、新田開発を進めた一方で農民には重税が課せられました。凶作と飢饉により大きな痛手を受けた農民は逃散し、享保一揆や宝暦一揆が起こりました。6代藩主・牧野宣成は藩校明倫斎を三ノ丸に開き、9代藩主・牧野誠成が拡張して明倫館としました。寛文11年(1671年)の東回り航路や翌年の西回り航路が開かれて商業が活発化しました。日本に外国船が来航するようになり、藩内に台場が建設されました。

京都府舞鶴市の上野家庭園

上野家庭園

江戸後期に建てられた大庄屋上野家の茅葺民家にある庭園です。京都造形芸術大学仲教授の協力を得て、地元住民の方が復元して京都府の名勝に指定されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治2年(1869年)に田辺の名称が山城や紀伊にあるため、田辺城の別名から舞鶴の名称が生まれました。明治4年(1871年)の廃藩置県で舞鶴県となり、明治9年(1876年)に京都府に編入されました。明治11年(1878年)に審致舎による舞鶴製糸場が設立され、明治29年(1896年)には綾部に郡是製糸株式会社が設立されました。舞鶴海軍鎮守府が開府して東地区が開発され、西地区は産業港湾都市として港が修復されました。明治37年(1904年)に福知山と新舞鶴間が開通し、大正11年(1922年)には小浜線、大正13年(1924年)には宮津線が開通しました。昭和元年(1926年)にはウラジオストクを結ぶ航路が開通して人や物資が行き交うようになりました。昭和13年(1938年)に東舞鶴市と舞鶴市が誕生し、昭和18年(1943年)に両市が合併して舞鶴市となりました。昭和20年(1945年)の終戦により全国18の引揚港のひとつに指定され、昭和33年(1958年)まで引揚船が迎えられました。

京都府舞鶴市の赤レンガ博物館

赤レンガ博物館

旧海軍の魚雷の倉庫として使われていた建物で、鉄骨レンガ造りの建物としては日本で最古級のものです。平成5年(1993年)にレンガ専門の博物館となりました。

京都府舞鶴市の引揚記念館

引揚記念館

昭和20年(1945年)から13年かけて、66万人がシベリアなどから引揚ました。平成27年(2015年)に引揚記念館の資料が世界記憶遺産に登録されました。