大飯郡

大飯郡は福井県南部に位置し、そのほとんどを中山間地が占めています。北は若狭湾に面して、リアス式海岸と白砂の海岸線を形成しています。西部にある青葉山は若狭富士と呼ばれ、佐分利川水系と南川水系が平野の中央を貫くように西から東へ流れて小浜湾に注いでいます。高浜のビーチは日本屈指の海水浴場として全国的に知られています。
概要
- 面積
- 284.59km2
- 人口
- 16,823人(2026年1月1日)
- 含む町村
- 高浜町、おおい町
- 地図
歴史
豊かな若狭湾を有することから、御食国の中心地として多くの海産物が都へ運ばれました。応仁の乱で戦火を避けて陰陽道宗家安倍家が名田荘に移り住み、暦づくりに携わり都の文化を伝えました。昭和時代に原子力発電所が運転を開始して西日本最大の電力供給地となりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代に高浜町には立石遺跡と神野浦遺跡が形成し、おおい町では大島半島の青法遺跡や寺内川遺跡を中心として、内陸部は岩の鼻遺跡に限られています。弥生時代になると大島半島の宮留遺跡や浜禰遺跡が形成し、北部九州から西日本一帯に波及した遠賀川式土器が出土しています。

今戸鼻
内浦湾を取り囲む音海半島北側に位置し、今戸鼻から押回鼻までの2キロの海岸線です。若狭湾一帯は日本海岸側でも顕著な沈降性海岸で、非常に硬い岩が断崖絶壁を形成しました。
古墳時代、飛鳥時代
大島半島の浜禰遺跡から古墳時代前期から後期の製塩土器や祭祀遺物が出土しています。古墳時代後期には小和田双子山古墳のほか、神田古墳群、ヒガンジョ古墳群、滝見古墳群などに横穴式石室を有する古墳が造営されました。
奈良時代、平安時代
若狭国はかつて遠敷郡と三方郡の二郡でしたが、天長2年(825年)に遠敷郡が分割され大飯郡が生まれました。奈良時代に船岡遺跡で大量の製塩土器と大型石敷炉群が検出されており、御食国の中心地として多くの海産物が都へ運ばれました。平安時代に成立した名田荘は、左衛門尉盛信の私領から蓮華王院を本家と仰ぐ荘園となりました。名田荘は複雑な経緯で多くの領主に相伝されますが、大半は京都大徳寺の別格寺院である徳禅寺へ寄進されました。
鎌倉時代、南北朝時代
平安時代末期に平経盛の知行国となりましたが、鎌倉幕府の成立に伴い稲庭時定を筆頭とする御家人が支配するようになりました。承久3年(1221年)の承久の乱を受けて、若狭国大飯郡本郷の地頭職に美作左近大夫朝親が任じられ、本郷姓を称しています。鎌倉幕府が滅亡して南北朝の争乱が始まり、一色氏が守護になると国人たちと対立するようになりました。
室町時代、安土桃山時代
若狭守護が一色氏から武田氏に移り変わると、佐分利を治めていた武藤氏は家臣に組み込まれ、高浜を治めて武田氏に反旗を翻した逸見氏などと争いました。応仁元年(1467年)の応仁の乱で戦火を避けて陰陽道宗家安倍家が名田荘に移り住み、暦づくりに携わり都の文化を伝えました。永禄8年(1565年)に逸見昌経が築城した高浜城は、若狭武田氏から豊臣秀吉配下の細川藤孝らが支配しました。

土御門家墓所
応仁の乱の戦火を避けて京都より移住した陰陽道宗家安倍家の墓所で、安倍有宣・安倍有春・安倍有修の墓標が残ります。安倍家は暦を編纂して土御門家の称号を得ていました。
江戸時代
慶長5年(1600年)に若狭国は京極高次に与えられ、寛永11年(1634年)には酒井忠勝が入封して小浜藩主となりました。丹後街道に設けられた高浜宿は人の往来が絶えませんでした。江戸時代後期に開国を求めて外国船が来航するようになり、小浜藩も大島半島に砲台を築くなど海防策を整えていきました。

小浜藩台場跡(鋸崎台場跡)
大島半島東端に位置する小浜藩の台場跡で、安政元年(1854年)に鋸崎と松ヶ瀬台場が築造されました。鋸崎1号台場は土塁と土塁に挟まれた5基の砲眼があります。

小浜藩台場跡(松ヶ瀬台場跡)
松ケ瀬1号台場は6基の土塁と土塁に挟まれた5ケ所の砲眼があり、松ケ瀬2号台場跡は半円形をした土塁に囲まれて1号台場跡より海側に立地しています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)に小浜県が設置されてから敦賀県や滋賀県を経て、明治14年(1881年)に福井県に編入されました。昭和28年(1953年)に真珠養殖が始まりました。昭和54年(1979年)に原子力発電所が運転を開始して西日本最大の電力供給地となりました。
