ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

三方郡

福井県三方郡の五湖テラス

三方郡は福井県の南西部に位置する美浜町のみで構成されます。若狭湾の支湾である美浜湾に面し、リアス式海岸を含む沿岸域は若狭湾国立公園に指定されています。西部にある日向湖と久々子湖は、若狭町の三方湖、水月湖、菅湖とともに三方五湖を成します。地域の8割は山地を占め、耳川や早瀬川水系などが日本海へと注ぎます。三方郡は日本の原風景が広がる美しい浜と伝統食へしこのまちとして知られます。

概要

面積
152.38km2
人口
8,398人(2026年1月1日)
含む町村
美浜町
地図

歴史

御食国として皇室や朝廷に海水産物を献上する役割を担いました。戦国時代に若狭武田氏から朝倉氏、織田信長の支配下となりました。江戸時代に京極氏から酒井氏の領地となり、宿場町に指定されたことで三方郡の中心地となりました。昭和時代には美浜発電所が運転を開始し、エネルギー供給の拠点となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代の遺跡はこれまで確認されていませんが、縄文時代には湖沼や海浜を控える山麓から山裾にかけて浄土寺遺跡や中長浜遺跡などで集落が形成されました。海岸段丘にある下田遺跡では縄文時代後期の土器が採集され、久々子湖を望む湖岸段丘にある竜沢寺遺跡から打製石斧などが採集されています。弥生時代の遺跡では南伊夜山遺跡から銅鐸が出土し、寄戸遺跡から石剣が出土しており、どちらも祭器として使われたと考えられています。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代前期から中期までの遺跡動向は不明ですが、古墳時代中期に木野古墳群や土肥山古墳群が造営されています。5世紀後半から6世紀前半にかけて、耳川流域で土器製塩が始められ、松原遺跡は古墳時代後期の土器製塩遺跡と考えられています。7世紀には耳川流域の興道寺窯で須恵器が焼かれ、7世紀後葉には太興寺廃寺と興道寺廃寺が創建しています。

福井県三方郡の興道寺廃寺跡

興道寺廃寺跡

7世紀後半から10世紀初めに耳川下流域の左岸の河岸段丘に存在していた古代寺院です。若狭国三方郡の有力氏族である耳別氏により建立されたと考えられています。

奈良時代、平安時代

7世紀後半に三方郡が設置され、美浜町には弥美郷と駅家郷がありました。8~9世紀にかけて興道寺遺跡や上野遺跡などで竪穴建物跡などが発見されています。室毘古王の子孫とされる耳別氏は、耳川下流域の弥美郷を拠点としました。

鎌倉時代、南北朝時代

興道寺遺跡などから13世紀の遺構・遺物が断片的に確認されており、新たな集落形成が成されたものと考えられています。

室町時代、安土桃山時代

居館や山城が築かれるようになり、地域では23もの城館跡が確認されています。弘治2年(1556年)に若狭国守護の武田氏の重臣・粟屋越中守勝久が国吉城を築城しました。天正11年(1583年)に城主となる木村常陸介定光は城下町を整備し、慶長6年(1601年)に若狭国主となる京極高次は、多賀越中守を国吉城代として三方郡の支配を任せました。

江戸時代

三方郡は小浜藩領に属し、寛永12年(1635年)に小浜藩主・酒井忠勝が町奉行所を設置し、享保3年(1803年)に町奉行所は佐柿陣屋と改称されました。寛文9年(1669年)には小浜藩が佐柿を旅人の宿泊地として指定したため、丹後街道を往来する人の宿場町として三方郡の中心地となりました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県により小浜県から敦賀県へ移り変わり、明治9年(1876年)に滋賀県に編入されたあと、明治14年(1881年)に福井県になりました。昭和45年(1970年)に美浜発電所1号機が運転を開始し、エネルギー供給の拠点となりました。