ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

敦賀市

福井県敦賀市の天筒山展望台

敦賀市は福井県の中央に位置し、福井県を嶺北地方と嶺南地方に分けています。北に敦賀湾が開いて日本海に面し、他の三方は野坂岳、西方ケ岳、岩籠山の敦賀三山に囲まれています。日本海側沿岸のほぼ中央にある天然の良港を有し、越前ガニや敦賀ふぐ、敦賀真鯛などの海の幸が豊富で、厳選された昆布を職人が薄く削るおぼろ昆布は全国8割以上のシェアを誇ります。

概要

面積
251.48km2
人口
60,892人(2026年1月1日)
市の木
市の花
ハギ
市の鳥
ユリカモメ
地図

歴史

敦賀港は天然の良港として知られ、大陸と日本を結ぶ交通の要衝として栄えました。日本海側の京都の玄関口として日本最大の要港となり、北国の都と呼ばれる発展を遂げました。江戸時代に北前船が寄港して昆布文化が生まれ、明治時代にはウラジオストクとの定期航路が開かれ、日本とヨーロッパを結ぶ港となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

野坂岳山頂付近で旧石器時代のナイフ形石器が発見され、櫛川鉢谷遺跡からは縄文時代前期から中期の隠岐島産の黒曜石薄片が複数出土し、木崎山南遺跡から縄文時代中期の土器がわずかに出土しています。弥生時代になると大規模集落が出現し、弥生時代中期には高地性集落である舞崎遺跡が見られ、吉河遺跡では弥生時代の竪穴建物や掘立柱建物、方形周溝墓、土器、石器、玉作関連遺物、木製品、土製品などが発見されています。

福井県敦賀市の気比の松原

気比の松原

三保の松原・虹の松原と並ぶ日本三大松原のひとつです。聖武天皇の時代に異賊が来襲すると、一帯が突然震動して一夜にして数千の松が出現したとされます。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代前期に敦賀平野西部に古墳が造られるようになり、古墳時代後期に敦賀平野東部へと移りました。三内山南麓にある櫛川古墳群には3基の円墳が確認され、そのひとつに穴地蔵古墳があります。櫛川遺跡では製塩炉が見つかり、古墳時代後期から製塩活動が開始していたと考えられています。

福井県敦賀市の立洞古墳(二号墳)

立洞古墳(二号墳)

木ノ芽川の左岸河岸段丘上にある帆立貝形前方後円墳で、4世紀末から5世紀初頭に築造されたと推定されています。銅鏡や竹櫛、鉄剣や鉄斧などが出土しています。

福井県敦賀市の中郷古墳群

中郷古墳群

敦賀平野の南東部の山麓に位置する向出山古墳群と明神山古墳群からなり、5~6世紀に築造されました。向出山1号墳からは、四神四獣鏡などの副葬品が多数見つかりました。

福井県敦賀市の穴地蔵古墳

穴地蔵古墳

7世紀前半~中頃に築かれた円墳で、無袖型の横穴式石室が開口しています。県内では珍しく石室奥壁に石棚があり、永正15年(1518年)銘のお地蔵様が祀られています。

奈良時代、平安時代

崇神天皇の時代に朝鮮から都怒我阿羅斯等が渡来したことから角鹿と呼ばれ、和銅6年(713年)に敦賀という字に改められました。交易の拠点である敦賀港が発展してき、平安時代初頭には渤海から使者を迎え入れもてなす松原客館が建設されました。旗護山や木崎山などに城が建てられ、沓見氏や山本氏が支配していたとされます。

鎌倉時代、南北朝時代

氣比神宮が幕府や朝廷から厚い保護を受け、門前町が発展して敦賀周辺に広大な荘園を有しました。延元元年/建武3年(1336年)に新田義貞は後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王を伴い敦賀に入り、気比神宮の大宮司・気比氏治が迎え入れました。北朝方の斯波高経らは金ケ崎城を攻め、新田義貞は援軍を求めて脱出しましたが、その長男・新田義顕と尊良親王は自害し、恒良親王は捕らえられました。

福井県敦賀市の金ヶ崎城跡

金ヶ崎城跡

延元元年/建武3年(1336年)に新田義貞は恒良親王と尊良親王を奉じて挙兵しました。翌年に金ヶ崎城は落城して恒良親王は捕縛され、尊良親王や新田義顕らは自害しました。

室町時代、安土桃山時代

敦賀津は日本海側の京都の玄関口として、日本海最大の要港として北国の都を呼ばれる発展をしました。永禄13年(1570年)に足利義昭が全国の武将に上洛命令を出しましたが、大飯郡の武藤友益がこれを拒否したため、織田信長が武藤氏討伐に出陣しました。この機に乗じて浅井長政は織田信長に離反し、織田信長は金ケ崎の退き口と呼ばれる撤退戦で命からがら退却しました。天正3年(1575年)に織田信長は越前を平定しますが、天正11年(1582年)に織田信長が本能寺の変で討たれる事件が起き、羽柴秀吉の台頭によりその家臣の蜂屋頼隆が敦賀城を築城して統治を始めました。蜂屋頼隆は九州平定の最中に病死して大谷吉継が敦賀城に入りますが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで大谷吉継は自刃して所領は没収されました。

福井県敦賀市の疋壇城跡

疋壇城跡

疋田南西部の丘陵地に築かれた平山城で、朝倉家臣・疋壇対馬守久保が築城したといわれています。海津越、塩津越、柳ヶ瀬越が交わる交通の要衝の抑えとして築城されました。

福井県敦賀市の玄藩尾城(内中尾山城)跡

玄藩尾城(内中尾山城)跡

福井県と滋賀県の県境にある内中尾山山頂にあり、天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦で柴田勝家が本陣として築城されました。石垣は無く、空堀と土塁が発達しています。

江戸時代

関ヶ原の戦いで徳川家康の次男・結城秀康が北ノ庄に入り、敦賀城に城代を置いて支配しました。元和元年(1615年)の一国一城令で敦賀城は廃城となり、敦賀城も事実上廃絶となりました。天和2年(1682年)に小浜藩主酒井忠直の次男・酒井忠稠が小浜藩の支藩として鞠山藩を成立させました。

北前船と昆布文化

北前船交易の中継地として日本各地の物品が集まり、特に昆布は蝦夷から運ばれる重要な商品でした。宝暦年間(1751~64年)にはおぼろ昆布の生産が始まり、文生7年(1824年)には細工昆布仲間と呼ばれる同業者組合が結成しました。享和2年(1802年)には敦賀港に出入りする北前船の目印として、庄山清兵衛が自邸に石積灯台を建てました。

福井県敦賀市の西福寺書院庭園

西福寺書院庭園

西福寺は南北朝時代に後光厳天皇の勅願により良如上人が開いた寺院です。江戸時代初期に徳川家康の次男・結城秀康が極楽浄土を表現する書院庭園を寄進しました。

福井県敦賀市の柴田氏庭園

柴田氏庭園

敦賀の豪農・柴田権右衛門の旧宅で甘棠園とも呼ばれています。敦賀の名峰である野坂山を借景する築山回遊林泉庭園で、参勤交代時は小浜藩主の休憩所にもなりました。

福井県敦賀市のけいの明神(氣比神宮境内)

けいの明神(氣比神宮境内)

元禄2年(1689年)に松尾芭蕉と弟子の河合曾良は奥の細道の旅に出て、旅の終わりごろに敦賀を訪れ、けいの明神と呼ばれる氣比神宮を参拝しました。

福井県敦賀市の洲崎の高燈籠

洲崎の高燈籠

享和2年(1802年)に建てられた現存する日本海側最古の石積み灯台です。庄山清兵衛が自邸の一角に建てたことから庄山の高燈籠とも呼ばれました。

福井県敦賀市の武田耕雲斎等墓

武田耕雲斎等墓

武田耕雲斎は尊皇攘夷派の水戸藩天狗党の首領として、元治元年(1864年)に朝廷に志を訴えようと挙兵しましたが、翌年敦賀で捕えられて処刑されました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治15年(1882年)に日本海側で初めて鉄道が敦賀に通りました。明治35年(1902年)に敦賀港とウラジオストクに定期航路が開設すると、明治45年(1912年)に東京新橋から敦賀金ケ崎間に欧亜国際連絡列車が運行したことから、ウラジオストクへの定期航路とシベリア鉄道を介して日本とヨーロッパを結ぶ港となりました。ロシア革命によるポーランド孤児やナチスドイツの迫害で祖国を追われたユダヤ人などの亡命で敦賀港に上陸しました。昭和12年(1937年)に敦賀市が誕生しましたが、昭和20年(1945年)に空襲被害を受けて大きな被害を受けました。