福井市

福井市は福井県の北西部にあり、日本列島のへそに位置します。肥沃な福井平野の南半分を占め、国内有数の米どころでコシヒカリ発祥の地でもあります。古くから絹織物の産地として発展し、日本でも有数の製造量を誇る繊維産業の集積地となりました。
概要
- 面積
- 536.38km2
- 人口
- 252,457人(2026年1月1日)
- 市の木
- 松
- 市の花
- あじさい
- 地図
歴史
縄文時代から人の営みが残されており、継体天皇が即位する前に過ごした地とされています。越前を支配した朝倉氏が拠点とした一乗谷は、京都から貴族や文化人が訪れるほどの繁栄を誇り小京都と呼ばれました。江戸時代に北国街道と勝山街道が分岐する交通の要衝に福井城が築かれ、政治、経済の中心地が移されて発展していきました。昭和時代に福井市街地は戦争の空爆や地震被害を受けますが、不死鳥のように復活を遂げて現在に至ります。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代早期後半から前期にかけて縄文海進と呼ばれる海水面上昇の時期があり、福井平野一帯が古九頭竜川湖湾と呼ばれる内湾を形成しました。その岸辺には北堀遺跡や深坂小縄遺跡などの縄文遺跡が立地しました。弥生時代中期に海水面が下がり、現在のような形状となり農耕が可能となりました。一説では男大迹皇子(後の継体天皇)の治水工事で豊かな耕地が生まれたとされます。

越前海岸の水仙畑
越前海岸は日本水仙の三大群生地の一つとして知られ、下岬地区はその発祥の地と言われています。厳冬の日本海に向かい咲く姿は、福井の冬の風物詩の一つとなりました。

北堀貝塚
未更毛川と日野川が合流する貝塚で、ニホンシジミの貝殻、獣骨、石斧類のほか縄文時代早期末から前期前半期の縄文土器が出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
九頭竜川流域の肥沃な平野を有力な豪族が支配し、数多くの巨大な古墳が築造されました。足羽山古墳群や御葺山古墳群などには数十基以上の古墳が築造されています。

お城山古墳
志津川右岸の後山にある前方後円墳で、4世紀に築造されたと考えられています。戦国時代にはお城山古墳を主郭とする円郭式山城が築造されました。

足羽山古墳群
足羽山一帯に分布する前方後円墳1基を含む61基からなる古墳群で、笏谷石製の石棺が多く出土しています。山頂古墳は直径60メートルの円墳で、4世紀末に築造されました。

免鳥長山古墳
5世紀前半頃に築造された帆立貝形前方後円墳で、古墳時代中期では北陸地方で最大級です。笏谷石製の刳抜き式石棺を採用し、越前の大型首長墓と位置づけられています。

御葺山古墳群
155基からなる古墳群で、73基が県の史跡に指定されています。古墳群は丘陵先端部・山頂部・西麓部の3支群からなり、5世紀に最盛期を迎えたと考えられています。
奈良時代、平安時代
天平15年(743年)に聖武天皇が大仏造立の詔を発すると、莫大な資金と食料が必要となりました。肥沃な福井平野は開発の対象となり、東大寺の荘園である道守荘や糞置庄などが開かれました。
鎌倉時代、南北朝時代
現在の福井市中心部に伊勢神宮の荘園として足羽御厨が形成しました。足羽御厨には足羽宿とおいう宿場町が形成し、のちに柴田勝家が北陸経営の拠点として北ノ庄城を築城し、江戸時代に福井城が築城されて城下町を形成する素地となりました。

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地
暦応元年(1338年)に藤島城の救援に向かう新田義貞は、斯波高経軍と交戦して戦死しました。明暦2年(1656年)に同地から兜が出土して戦没地とされました。
室町時代、安土桃山時代
文明3年(1471年)に朝倉氏が一乗谷に本拠を構え、一乗谷は小京都と呼ばれるほどの栄華を極めました。天正元年(1573年)に朝倉義景は織田信長に攻め滅ぼされ、一乗谷も焼き討ちされて灰燼と帰しました。朝倉氏滅亡後に柴田勝家が越前に入り、天正3年(1575年)に北ノ庄城を築城しました。天正11年(1583年)に柴田勝家は羽柴秀吉に攻められ、北ノ庄城は落城しました。

一乗谷朝倉氏遺跡
朝倉氏が越前支配の拠点とした中世都市で、三方を山に囲まれて川が流れる狭い谷間の平野に築かれています。政治・文化都市として繁栄し、武家屋敷や町屋などが密集しました。

一乗谷朝倉氏庭園
一乗谷には豪壮な庭石組の池泉回遊式や枯淡な枯山水など15ヵ所以上の庭園跡が見つかりました。長らく土に埋もれており、庭園の原形を残す石組が良好に残されています。

清原宣賢卿墓所
清原宣賢は戦国時代の国学者で、宮中に仕えて講義を行いました。少納言に補任されたものの後柏原天皇の不興を買い、朝倉孝景の招請に応じて一乗谷で講義を続けました。
江戸時代
慶長5年(1600年)に徳川家康の次男・結城秀康が越前を与えられ、北ノ庄城を拡張・修築して新たに福井城を築城しました。地名は北庄から福居と改称され、元禄14年(1701年)に福井に改められました。福井城下町は北国街道と勝山街道が分岐する交通の要衝で、経済的にも大きく発展していきました。最後の藩主となる松平春嶽は将軍継嗣問題で一橋慶喜を推して大老井伊直弼と対立しますが、政事総裁職として復帰して公武合体を推進し、その治世から橋本左内、由利公正、橘曙覧、笠原白翁など多くの人材が輩出されました。

福井城跡
慶長11年(1606年)に初代福井藩主・結城秀康が築城し、270年にわたり越前松平家の居城となりました。水堀を巡らした環郭式の平城で、四重五層の天守がありました。

養浩館(旧御泉水屋敷)庭園
江戸時代初期から中期を代表する数寄屋造りの屋敷をそなえる回遊式林泉庭園です。永見右衛門の屋敷から福井藩主松平家の別邸になり、7代藩主松平昌明が大改造しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で福井県となりますが、足羽県や石川県を経て、明治14年(1881年)に再び福井県となりました。明治22年(1889年)に市制を施行して誕生した福井市では、大正時代に絹織物から人絹産業への転換していき、昭和7年(1932年)には世界で初めて人絹取引所が開設されました。昭和20年(1945年)の空襲、昭和23年(1948年)の福井大震災など、数度にわたり壊滅的な打撃を受けました。福井市は不死鳥のように復興し、不死鳥は福井市のシンボルマークとなりました。
