南牟婁郡

南牟婁郡は三重県南端に位置し、熊野灘と紀伊山地に東西を挟まれています。典型的な海洋性気候で温暖多雨な気候に恵まれ、一年中みかんが栽培されています。沿岸部の七里御浜はウミガメの産卵地として知られています。
概要
- 面積
- 167.75km2
- 人口
- 18,056人(2022年3月1日)
- 含む町村
- 御浜町、紀宝町
- 地図
特集
歴史
平安時代の貴族に代わり鎌倉武士たちが熊野詣を行うようになり、熊野参詣路として伊勢路は多くの人が往来するようになりました。熊野参詣を行う人は減少していきましたが、熊野詣が再び盛んになると紀州藩が宿駅や一里塚などを整備し、多くの参詣者で賑わうようになりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代から漁撈や収集を中心として人が生活しており、成川小学校遺跡で縄文時代中期から晩期の土器や石器が見つかり、鵜殿西遺跡から縄文時代後期の土器が出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
東紀州地域では紀北町で横城古墳、おまわき古墳の存在が知られていますが、尾鷲市以南では今のところ確実な古墳は確認されていません。
奈良時代、平安時代
熊野別当の一族である鵜殿氏が鵜殿城を拠点として熊野水軍の一翼を担い、榎本氏が産田神社の神官として熊野市有馬町を拠点として御浜町阿田和から尾鷲市行野浦まで支配しました。榎本氏は宇井家、鈴木家とともに熊野三党と呼ばれるようになりました。源義経の側近として源平合戦に従軍した武蔵坊弁慶は熊野別当湛増の子とされ、紀宝町鮒田地区で生まれた伝承が残されています。
鎌倉時代、南北朝時代
平安時代の貴族に代わり鎌倉武士たちが熊野詣を行うようになり、浜街道は多くの旅人が行き交いました。
室町時代、安土桃山時代
14世紀中頃に榎本出雲守の墓石群が御浜町に造営されました。榎本氏は有馬氏を名乗りますが、家中争いや家督争いで新宮を拠点とした堀内氏が養子として迎えられました。堀内家と有馬家の家督を相続した堀内氏善は、天正10年(1582年)に尾鷲市の一部まで勢力を広げました。天正13年(1585年)の豊臣秀吉の紀州征伐で堀内氏善は降伏して所領を安堵されましたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため没落しました。
江戸時代
紀州藩の直轄領と新宮領主水野氏の領地に分割されました。熊野詣が再び盛んになると紀州藩は熊野参詣道伊勢路に宿駅や一里塚などを整備し、多くの参詣者で賑わうようになりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で新宮県から度会県に属し、明治9年(1876年)に三重県に編入されました。明治9年(1876年)の萩の乱の鎮圧に向かう雲揚艦が暴風雨で阿田和沖で遭難する事故が起きました。昭和26年(1951年)に熊野川河口に紀州製紙の工場が建設されました。
熊野参詣道(伊勢路)
紀伊半島東岸を南下する道で、主に東国から熊野三山を目指す参詣者が使用しました。江戸時代に伊勢神宮への参詣と青岸渡寺を一番札所とする西国巡礼が盛んになり多くの人が利用するようになりました。

熊野速玉大社御船島
熊野本宮大社から熊野速玉大社への参拝は熊野川を船で下るのが一般的でした。御船島は熊野速玉大社の神域になり、船旅の道しるべともなりました。

