多気郡

多気郡は三重県の中央部に位置し、東西に細長く広がります。西部は吉野熊野国立公園に指定される森林が占め、東部は伊勢平野の南端にあたる平坦な地形をしています。南海型気候区に属して比較的温暖な気候をしており、緩やかな丘陵地帯では伊勢いもや柿、茶などの栽培が盛んで、沿岸部では伊勢ひじきの産地として知られます。
概要
- 面積
- 506.96km2
- 人口
- 44,371人(2022年3月1日)
- 含む町村
- 多気町、明和町、大台町
- 地図
特集
歴史
山間部を中心に旧石器時代から人が生活し、飛鳥時代から天皇に代わり伊勢神宮に仕えるため、皇族女性の中から選ばれた斎王が宮殿を構えました。南北朝時代に伊勢国司となる北畠氏は織田信長に滅ぼされました。江戸時代は伊勢参りや熊野詣の流行により宿場町が大いに賑わいました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代から人の営みがあり、コドノA遺跡や出張遺跡から旧石器時代の石器が見つかりました。縄文時代創成期の高皿遺跡、縄文時代前期の縁通庵遺跡やアカリ遺跡から縄文土器や石器が見つかります。新徳寺遺跡では縄文時代後期の集落遺跡が営まれ、金剛坂遺跡は縄文時代から弥生時代にかけて集落が営まれました。織糸遺跡では弥生時代の墳墓が見つかりました。

坂倉遺跡
縄文時代早期の集落跡と見られています。食物を煮炊きする炉の跡や堅穴住居跡が発見され、数軒ほどの集落が形成していたと推定されています。
古墳時代、飛鳥時代
伊勢平野の豊かな農業生産と伊勢湾の海上交通を背景に有力な豪族が支配していました。律令体制が整備されると多気郡に属し、天武天皇2年(673年)に大来皇女が斎王に選ばれて伊勢神宮に派遣されました。

坂本古墳群
明和町の洪積台地に造営された古墳群で、周辺には東垣内古墳群や塚山古墳群があります。古墳時代末期に造営された前方後方墳の1号墳から金銅装頭椎大刀が発見されました。

斎宮跡
斎王が住んだ宮跡と言われます。斎王は天皇に代わり伊勢神宮に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族女性の中から選ばれて都から伊勢に派遣されていました。
奈良時代、平安時代
多気郡は伊勢神宮領に属して御園が開かれて、7世紀頃から伊勢神宮に仕える斎王が住みました。多気町は日本最大の水銀鉱山として知られ、丹生から産出した水銀鉱石の辰砂が東大寺の大仏の金メッキの大部分に使われました。平安時代後期には西行が千鳥ヶ瀬で千鳥の歌を詠んでいます。

水池土器製作遺跡
奈良時代の土師器を焼いた一連の製作過程がわかる全国でも珍しい遺跡で、奈良時代の斎宮で使う土師器もここで作られていたと考えられています。
鎌倉時代、南北朝時代
後醍醐天皇に重用された北畠親房が田丸城を根城として、三男・北畠顕能が伊勢国司に任命されました。北畠氏は南朝方として吉野の朝廷を支援しました。
室町時代、安土桃山時代
永禄10年(1567年)に織田信長が伊勢進攻をはじめ、永禄12年(1569年)に織田信長は次男・織田信雄を北畠氏の養子とすることで和睦を図りました。北畠具教は上三瀬の館に隠居しつつも依然として強い影響を持ち続けたため、天正4年(1576年)に北畠具教は殺害されました。北畠具教の弟・北畠具親が2度にわたり反旗を翻しましたが失敗しました。

三瀬砦跡
伊勢国司の北畠氏の家臣・三瀬氏が室町時代に築城して居城としました。大谷川が宮川本流と合する突端にあり、三方は断崖に阻まれる要害の地にありました。

北畠具教三瀬館跡
永禄12年(1569年)の大河内合戦のあとに伊勢国司の北畠具教が隠棲した館跡で、天正4年(1576年)に織田信長の刺客で暗殺されるまで過ごしていました。
江戸時代
江戸時代は藤堂藩・鳥羽藩・紀州藩・神宮領と分割して統治されました。延宝6年(1678年)に県内最大の貯水量を誇る五桂池が造営され、新田開発が行われました。文政3年(1820年)に西村彦左衛門が立梅用水を計画し、紀州藩が工事に着手して3年後に完成させました。醸造業が盛んな車川流域では、享保2年(1717年)に北村醤油醸造場、安政5年(1858年)に北村酒醸造場が創業しました。幕末に外国船が日本近海に来航するようになると、田丸城主久野純固は西洋砲術や航海術を学ばせて砲術訓練場を設けました。

法泉寺庭園
万治2年(1659年)に填啓上人が小庵を結び、正徳5年(1715年)に梅嶺和尚が旧法泉寺を開山しました。法泉寺は南勢黄檗宗の名刹として知られていました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で度会県の管轄となり、明治9年(1876年)に三重県に統合されました。大台町は近代日本を支える木材供給拠点として、大杉谷などの奥大台で伐り出された良質なヒノキやスギは宮川を下り伊勢湾へと運ばれました。
熊野参詣道(伊勢路)
紀伊半島東岸を南下する道で、主に東国から熊野三山を目指す参詣者が使用しました。江戸時代に伊勢神宮への参詣と青岸渡寺を一番札所とする西国巡礼が盛んになり多くの人が利用するようになりました。

女鬼峠道
伊勢路で最初に越える難所で、昼間でも薄暗く涼しさを感じます。峠の途中は人力で岩盤を切り崩した切通が作られ、荷車がこの峠を往来したそうです。

