熊野市

熊野市は三重県南部に位置し、面積の9割近くを豊かな森林が占めています。海岸線の北部は柱状節理の楯ヶ崎などリアス式海岸を形成し、南部は隆起砂礫海岸の七里御浜が続きます。温暖な気候と豊かな自然に恵まれ、みかん、高菜、香酸かんきつ新姫、熊野地鶏などの農産物や碁石などの素材として評価の高い那智黒石などの特産品で知られています。
概要
- 面積
- 373.35km2
- 人口
- 15,528人(2022年3月1日)
- 市の木
- 熊野杉
- 市の花
- 笹百合
- 市の鳥
- ウグイス
- 地図
特集
歴史
熊野市は国産み神話で知られている地で、伊勢方面から熊野三山へ参詣する経路として平安時代後期までに熊野参詣道伊勢路が成立していました。熊野詣を行う人は次第に減少していきましたが、江戸時代に再び盛んに行われるようになりました。紀州藩は熊野参詣道に石畳を敷設したほか、宿駅や一里塚などを設置したことで多くの参詣者で賑わうようになりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
東紀州地域では旧石器時代の遺跡は確認されておらず、縄文時代早期に七里御浜の砂丘上に形成した釜の平遺跡から人の営みが見られます。縄文時代中期から遺跡の数が増え、松原遺跡や口有馬遺跡、有馬池A遺跡、有馬池B遺跡、仲の茶屋遺跡、大前池A遺跡、大前池B遺跡から土器が縄文土器が出土しています。弥生時代には津ノ森遺跡で東紀州地域で最大級の集落が形成しました。

熊野の鬼ケ城附獅子巖
七里御浜に面した獅子岩は、高さ25メートルの石英粗面岩塊です。大きな獅子が大海原に向かい咆哮しているような姿をしています。

楯ヶ崎
二木島湾の入口にそそり立つ柱状節理の大絶壁で、熊野灘の荒波とともに壮絶な景観を見せています。神武天皇が東征したときに上陸した地点とも言われています。
古墳時代、飛鳥時代
東紀州地域では紀北町で横城古墳、おまわき古墳の存在が知られていますが、尾鷲市以南では今のところ確実な古墳は確認されていません。初代天皇である神武天皇が天照大神より遣わされた八咫烏の助けを借りて山間を抜け、最終的に樫原神宮で初代天皇として即位したとされます。
奈良時代、平安時代
大宝3年(703年)に朝廷に自然銀が献上され、天平15年(743年)には東大寺の大仏鋳造のために銅が供出されたと伝えられています。伊勢方面から熊野三山へ参詣する経路として熊野参詣道伊勢路が平安時代後期には成立しました。
鎌倉時代、南北朝時代
国産みの舞台として熊野三山信仰に先立つ古代からの聖地とされている花の窟は、伊邪那美命の葬地として死と再生を願う多くの巡礼者が立ち寄る祈りの中心地として信仰を集めました。
室町時代、安土桃山時代
産田神社の神官を務めていた榎本氏が有馬一帯に勢力を及ぼして有馬氏を称し、丘陵上に赤坂城跡や木本要害山城跡、向山城跡などの小規模な城館を築いたほか、文安元年(1444年)に安楽寺を創建しました。有馬氏は家中争いが絶えず血脈が途絶えたため、新宮堀内氏から養子を招いて存続しましたが、堀内氏善が両家を継いで支配下に置きました。天正10年(1582年)に堀内氏善は紀伊長島まで勢力を拡大し、天正13年(1585年)の豊臣秀吉の紀州征伐で降伏して所領を安堵されました。天正15年(1585年)に北山に藤堂高虎が入りますが、北山の農民たちは検地に反対して北山一揆を起こしました。

赤木城跡及び田平子峠刑場跡
天正17年(1589年)頃に藤堂高虎が赤城城を築城しました。藤堂高虎は赤城城の落成披露に北山の農民を招き、その場で捕らえた農民を田平子峠刑場跡で処刑しました。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで堀内氏善は西軍についてこれに敗れると、和歌山の桑山一晴らに攻められて九州へ落ち延びました。熊野は紀州藩の支配下となり、紀州藩の直轄領と新宮領主水野氏の領地に分割されました。熊野詣が再び盛んになると紀州藩は熊野参詣道伊勢路に石畳を敷設したほか宿駅や一里塚などを整備して、多くの参詣者で賑わうようになりました。

二木島の一里塚
二木島集落にある一里塚跡で、巡礼路の仁木島峠や逢神坂峠に至る道沿いにあります。一里塚の周囲にはキリシタン灯籠や8基もの熊野詣の巡礼供養碑が立ち並びます。

大丹倉
高さ200メートルの大絶壁がある岩山は古くから修験道の聖地でした。修験者の世話をする丹倉集落がつくられ、江戸時代に山頂には大丹倉で修行した高倉劔が祀られています。

水車谷鉱山跡
江戸時代の鉱山集落遺跡で、紀伊藩直轄の銅の採鉱所跡が残されています。3基の採掘坑跡、溶解炉や多量に廃棄された銅滓跡、役所跡や墓地などが良好に残されています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で新宮県を経て度会県に編入され、明治9年(1876年)に度会県は三重県に編入されました。熊野市から新宮市にかけて広がる鉱山では近代的な採掘技術が導入され、昭和9年(1934年)に石原産業が鉱区買収して紀州鉱山を開設しました。奥熊野の行政・経済の中心地として成長したことで、昭和29年(1954年)に熊野市が誕生しました。
熊野参詣道(伊勢路)
紀伊半島東岸を南下する道で、主に東国から熊野三山を目指す参詣者が使用しました。江戸時代に伊勢神宮への参詣と青岸渡寺を一番札所とする西国巡礼が盛んになり多くの人が利用するようになりました。

熊野参詣道(伊勢路)
伊勢神宮から熊野三山へ通じるおよそ170キロの参詣道で、浜街道と本宮道の2つがあり、伊勢神宮を訪れた旅人や西国三十三カ所めぐりの巡礼者たちが使用しました。

七里御浜
熊野市木本から和歌山県新宮市の熊野速玉大社に向かう道は、浜街道や七里御浜街道と呼ばれていました。新宮まで峠道はなく、七里御浜沿いの海岸線を歩くことができました。

花の窟
日本書紀にも記されている日本最古の神社といわれています。国産みの舞台として熊野三山信仰に先立つ古代からの聖地とされています。

