尾鷲市

尾鷲市は三重県南部に位置し、西は大台山系の山地が広がり、東は太平洋に面してリアス式海岸を形成しています。日本一降水量の多い土地として知られ、温暖多雨の気候は尾鷲ヒノキの産地となりました。天然の良港を有しており真鯛の生産量は全国でも上位を占めます。
概要
- 面積
- 192.71km2
- 人口
- 15,733人(2022年3月1日)
- 市の木
- ヒノキ
- 市の花
- ヤブツバキ
- 市の鳥
- アオサギ
- 市の魚
- ブリ
- 地図
特集
歴史
古くから海上交通の要衝であり、熊野三山を総括した熊野別当の後裔と言われる九鬼氏が拠点を置きました。江戸時代に紀伊藩のもとで石採業のほか漁業や林業が盛んに行われ、藩営の捕鯨業も行われました。熊野灘に面する地理から、宝永大地震や安政大地震のほか昭和南海地震の大津波で大きな被害を受けています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
熊野灘沿岸部では縄文時代から人の営みが残されています。縄文時代早期末から晩期に至るまで曽根遺跡が営まれ、向井遺跡からは縄文時代早期末の土器が出土しています。弥生時代の遺跡に関する記録は見つけられず、平地が少なく大規模な定住集落が形成されにくい環境のためと考えられます。
古墳時代、飛鳥時代
平野部が極めて少ない地形のため巨大な前方後円墳が築かれませんでした。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立して紀伊国牟婁郡に属しました。大宝年間(701~703年)にヤーヤ祭で知られる尾鷲神社が創建したとされ、尾鷲を取り囲む急峻な山は平安時代に修験道の修行場となりました。久木浦には伊勢神宮の荘園として比志加御厨が開かれ、熊野三山を総括した熊野別当の後裔が九木浦に拠点を置いて九鬼隆真を名乗りました。
鎌倉時代、南北朝時代
九木浦を拠点とした九鬼氏が通行料を徴収する警固衆として熊野灘の制海権を握るようになりました。九鬼氏は尾鷲ヒノキなどの豊かな木材資源を背景に堅牢な船を作る技術を磨き上げました。
室町時代、安土桃山時代
弘治年間(1555~58年)に近江の佐々木六角氏の同族である佐々木右衛門正吉が曽根に移り住み、曽根弾正と名を改めて曽根荘を治めました。天正3年(1575年)に堀内安房守が曽根城の曽根弾正を味方にして三木城を攻めました。三鬼新八郎は九鬼嘉隆の援軍を得て堀内氏を退けましたが、やがて三鬼氏と九鬼氏と不和となり、天正6年(1578年)に堀内氏が三木城を攻略しました。天正9年(1581年)に堀内氏善は織田信長から牟婁郡神領を安堵され、天正13年(1585年)の豊臣秀吉の南征で豊臣秀吉に臣従して熊野地方の支配を任されました。
江戸時代
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで堀内氏は除封となり、浅野幸長の統治を経て徳川頼宣が紀州藩主になりました。海上交通の要衝であるため常燈場が設置され、九木崎遠見番所や狼煙場が設置されました。紀州藩は曽根石の採石を行うほか林業を推奨し、寛永元年(1624年)に初めて人工造林が行われました。漁業が盛んに行われ、鯨方役所が置かれて藩営の捕鯨業が行われましたが、宝永4年(1707年)の宝永大地震や嘉永7年(1854年)の安政大地震の津波で大きな被害を受けました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で紀州藩が分割されて度会県に編入され、明治9年(1876年)に度会県は三重県に編入されました。昭和19年(1944年)の昭和東南海地震で大津波に襲われました。昭和29年(1954年)に尾鷲市が誕生し、昭和31年(1956年)に尾鷲港は遠洋漁業基地と鰹水揚港に指定されました。
熊野参詣道(伊勢路)
紀伊半島東岸を南下する道で、主に東国から熊野三山を目指す参詣者が使用しました。江戸時代に伊勢神宮への参詣と青岸渡寺を一番札所とする西国巡礼が盛んになり多くの人が利用するようになりました。

八鬼山荒神堂跡及び茶屋跡
西国一の難所と呼ばれた八鬼山道の道中にあります。令和元年(2019年)に開創された八鬼山荒神堂は、大宝2年(702年)に修験者の返昌院仙玉法印の創基と伝えられています。

