足柄下郡

足柄下郡は神奈川県の西南端にあり、三方を箱根外輪山や伊豆・熱海の産地に囲まれています。相模湾に突き出た真鶴半島は東洋のリヴィエラとも称される自然豊かな港町を形成します。箱根や湯河原など温泉が豊富な地域であり、避暑地や保養地として日本の代表的な国際観光地として発展しています。
概要
- 面積
- 140.88km2
- 人口
- 40,789人(2021年11月1日)
- 含む町村
- 箱根町、真鶴町、湯河原町
- 地図
特集
歴史
平安時代に平家討伐の兵を挙げた源頼朝は、石橋山の戦いで敗れて真鶴半島に身を隠して房総半島へと逃げ延びました。古くから火山活動が活発な箱根山は、山岳信仰の聖地となりました。江戸時代に東海道の要衝として箱根関所が設置され、箱根は温泉宿場町として栄えました。明治時代から温泉地、避暑地として発展し、高度経済成長期を経て国際的な観光地へと発展しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
箱根では1万2~3千年前から人の営みがあり、弁天山から黒曜石製石器が発見されています。7~8千年前の縄文時代早期には宮城野付近の河岸段丘上に集落ができ、2千年前の弥生時代中期に古芦ノ湖の仙石原部分が湿地化して農耕が始められたとされます。湯河原では鍛冶屋で採掘された黒曜石で石器が作られましたが、縄文時代後期に採り尽くされたため、人びとは他の地域に移住しました。
古墳時代、飛鳥時代
真鶴町では古墳時代中期に狐塚1・2号古墳、平台古墳などが造営され、湯河原町には古墳時代後期に八雲里古墳や船岡横穴古墳が造営されました。箱根山の火山活動は穏やかな時期を迎え、箱根駒ヶ岳の馬降石には古代信仰として馬神信仰と祈雨信仰が伝えらています。
奈良時代、平安時代
律令体制が成立して、相武国造が支配した相武国から相模国と名付けられました。相模国には足上・足下・余綾・大住・御浦・高座・鎌倉・愛甲の8つの郡があり、地域は足下郡に属しました。荒井城を居城とした荒井刑部実継は、鎌倉景道とともに後三年の役に源義家方として参戦して戦死しため、その子の実正が土肥姓を名乗り、さらにその子が土肥実平を名乗ります。治承4年(1180年)に源頼朝は平家討伐と源氏再興の兵を挙げて石橋山合戦で大庭景親や伊東祐親に敗れますが、土肥実平に導かれて土肥椙山に隠れて真鶴から安房へと向かいました。

土肥椙山厳窟(伝源頼朝隠潜地)
平家討伐の兵を挙げた源頼朝は、石橋山の戦いで平家に敗れて追撃されました。源頼朝は3日間も嚴窟に潜んで九死に一生を得て、真鶴から安房へと向かいました。

土肥一族の墓所
土肥氏の菩提寺である城願寺は土肥の館の持仏堂の跡に建立されました。その境内には土肥氏一族墓と伝えられる鎌倉時代の五層塔・七層塔・五輪塔などがあります。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代に湯本から三島に抜ける湯坂道が開通して、初めて箱根山に公道が敷設されました。湯河原一帯を支配していた土肥氏は、南北朝時代に入ると北朝方に属したとされます。
室町時代、安土桃山時代
室町幕府を開いた足利尊氏は、武士政権で重要な意味を持つ鎌倉に長男の足利義詮を配置し、弟の足利基氏を関東管領としました。のちに鎌倉公方と呼ばれるようになり、上杉氏がこれを補佐する執事になりました。応永16年(1409年)に鎌倉公方となる足利持氏は、執事の犬懸上杉氏憲と領地問題で対立関係になりました。犬懸上杉氏憲は幕府に対して挙兵して敗北する乱が起こりました。土肥氏は上杉氏憲に与したことで領地は完全に没収され、その領地は駿河駿東郡の大森頼春に与えられました。
後北条氏の台頭
大森氏頼が死去して大森藤頼が家督相続しますが、家中が不安定になる。北条早雲は、これを好機として小田原城を攻略し、大森氏を追い落とした。その結果真鶴も北条氏の支配下に入った。早雲後氏綱・氏康・氏政・氏直と続き下野国と常陸国をのぞく関東一帯と伊豆を領地とする有力な戦国大名となった。小田原城は代表的な城下町として栄えましたが、天下統一の事業が織田信長から豊臣秀吉と受け継がれ進められ、北条氏は豊臣秀吉に帰属することを拒んだため、天正18年(1590年)に滅亡しました。
江戸時代
関東を与えられた徳川家康は、天正19年(1591年)に徳川16将のひとり大久保忠世を小田原城に置いて小田原藩の所領となりました。以降は譜代大名が交替で治める時代を経て、阿倍氏や稲葉氏など領主が目まぐるしく変わりました。寛永14年(1637年)に真鶴村尻掛浦でボラ網漁が行われるようになりました。
天下の険・箱根
江戸時代初期に湯本から畑宿を経て箱根に通じる東海道が整備され、箱根山は天下の険と言われるほど往来は困難を極め、幕府は箱根を自然の要塞として芦ノ湖畔に関所を設けました。箱根は交通の要衝として、関所を中心に宿場町へと発展することになります。箱根八里と箱根関所は、旅人を随分悩ませたようですが、箱根七湯といわれた豊かな温泉は魅力でした。江戸時代後期になって、温泉場での宿泊が一夜湯治の形で旅人にも定着するようになると、箱根は伊勢講・富士講など、庶民の旅で大変な賑わいを見せるようになりました。

箱根旧街道
箱根八里は急坂が続くことに加え、天候が悪いと足が泥にはまるほどの東海道最大の難所でした。箱根竹が敷かれましたが、竹は腐食するため石畳の道が整備されました。

箱根関跡
江戸防衛のために重視した箱根山に設置された関所で、小田原藩が管理運営して旅人の往来を監視しました。特に出女に対しては厳重な取り調べが行われました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治時代に関所が廃止され、現在の国道1号線の原形となる幹線道路が開通しました。交通が便利になり箱根は湯治場としてだけではなく避暑地としても有名になり、外国人にも愛されて別荘も建てられるようになりました。大正時代には箱根登山鉄道が湯本から強羅まで開通し、昭和25年(1950年)に小田急線が小田原~箱根湯本間に乗り入れました。昭和37年(1962年)に箱根新道、昭和39年(1964年)には乙女バイパスが開通し、昭和51年(1976年)の箱根湿生花園、昭和61年(1986年)の箱根芦之湯フラワーセンターなどの施設が開設されていきました。

神仙郷
昭和19年(1944年)から昭和28年(1953年)にかけて岡田茂吉が手がけた庭園です。築山、渓流、瀧、園路などを回遊する石楽園や苔庭などで構成されています。
幕山と湯河原梅林
幕山公園にある湯河原梅林は、
- 山行日
- 2006/03/30
- 天 候
- 晴れ
- ルート
- 湯河原駅(09:30)~城山(10:40)~一の瀬橋(11:45)~自鑑水(12:30)~南郷山(12:50)~幕山(13:15)~湯河原駅(14:45)
- 地 図
- 山と高原地図「箱根」
- 同行者
- 単独
- 標 高
- 城山(563m)、幕山(625m)、南郷山(611m)

土肥城山
土肥一族の居所である土肥館が置かれていたと考えられています。土肥一族は源頼朝が挙兵して石橋山の戦いで敗れたあと、源頼朝をしとどの窟に匿いました。

南郷山
およそ15万年前に形成した外輪山の南端に位置します。治承4年(1180年)に石橋山の戦いで敗れた源頼朝が逃れた地で、源頼朝ゆかりの自鑑水などがあります。

幕山
幕山は古期外輪山の外側で噴火した寄生火山です。幕山の岩壁にはマグマが冷却固結する際に収縮して出来た柱状節理があり、クライミングスポットとして知られます。

湯河原梅林
平成8年(1996年)に幕山南麓の溶岩円頂丘の岩壁を取り囲むように造営された梅林で、早春には幕山の斜面に約4000本もの紅梅と白梅が咲きます。

