足柄上郡

足柄上郡は神奈川県の西部に位置する5つの町で構成されています。市域の多くが西丹沢山塊に属し、面積の8割を森林が占めます。酒匂川を軸に豊かな自然環境に恵まれ、上流にある丹沢湖は神奈川県の水瓶と言われます。気候は温暖で、米・みかん・茶の産地として知られる農山村地帯でしたが、グリーンテクなかいなどの工業団地の整備や住宅団地進出により、近郊都市へと変遷しています。
概要
- 面積
- 303.28km2
- 人口
- 64,970人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 中井町、大井町、松田町、山北町、開成町
- 地図
特集
歴史
多くを丹沢山地が占める地形のため、富士山の噴火や東海・東南海地震による自然災害に悩まされました。江戸時代に小田原藩が治めていましたが、元禄大地震に続き宝永大地震と富士山噴火により大きな被害を受け、一時的に幕府の直轄領となりました。明治時代以降も関東大震災などで被害を受けました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代中期に尾崎遺跡や共和小学校遺跡などに集落が形成しました。大山山頂遺跡から縄文時代後期の土器片などが見つかり、同じ頃に金子台遺跡にストーンサークルが形成されました。弥生時代には堂山遺跡に生活の痕跡が残されています。
古墳時代、飛鳥時代
地域の権力者が南原古墳群や水上古墳群を築造し、7世紀から8世紀にかけて雑色横穴墓群が形成しました。
奈良時代、平安時代
平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族である波多野氏が支配しました。松田郷は波多野義常、河村郷は波多野秀高が河村を名乗り支配しました。治承4年(1180年)に源頼朝が平家討伐の兵を挙げると波多野一族は平家に与し、中村党の中村宗平は源頼朝に与しました。源頼朝は石橋山の戦いで敗れますが、のちに建て直して波多野義常は松田館で自害に追い込まれました。河村義秀は河村郷を没収されますが、源頼朝に流鏑馬の妙技を披露したことで河村郷の復帰を認められています。この流鏑馬の妙技が室生神社の流鏑馬の起源とされています。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉幕府が滅亡して南北朝の争乱になると河村氏は南朝方に味方しました。正平7年(1352年)に南朝方の新田義興らは河村城に籠城しますが、畠山国清を主将とする北朝方と戦いとなり、翌年に新田軍は河村城から退却しました。

河村城跡
平安時代末期に河村氏が築城しました。関東管領上杉氏や大森氏から後北条氏の出城となりますが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で廃城となりました。

最明寺史跡公園
承久3年(1221年)に源頼朝の庇護を受けた浄蓮上人源延が西明寺を創建しましたが、文明元年(1469年)に大井町に移されて最明寺となりました。
室町時代、安土桃山時代
関東管領上杉氏や大森氏から後北条氏の支配下となりました。河村城などは甲斐武田氏に備えた出城として重視されましたが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で後北条氏は滅亡して廃城になりました。当地は小田原城に入城した大久保忠世の支配下となりました。
江戸時代
徳川家譜代大久保氏の所領として小田原藩に属しました。元禄16年(1703年)の元禄大地震に続き、宝永4年(1707年)の宝永大地震と宝永の富士山噴火により大きな被害を受け、一時的に幕府領となりました。大量の降灰により皆瀬川が氾濫を繰り返したため名主の湯山弥五右衛門らが掘割により洪水を防ぐ方策を行いましたが、この方策で水不足を招く問題も起こりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で足柄県に属し、明治9年(1876年)に神奈川県に編入されました。明治11年(1878年)に高橋倉次郎がみかんの栽培を始め、カナダに輸出されるほど普及していきました。明治22年(1889年)に東海道線が開通して山北駅が開業しました。大正12年(1923年)に相模湾北西部を震源とする関東大震災が発生し、大きな被害を受けました。昭和20年(1945年)に空襲被害を受けましたが、昭和44年(1969年)に東名高速道路が開通するなど発展していきました。

