ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

糸満市

沖縄県糸満市の美々ビーチ

糸満市は沖縄本島最南端に位置し、平坦な低地が続く地形をしています。古くから水産業が盛んで、海人(漁師)の街と言われます。アジア太平洋戦争の沖縄戦の最終地であり、沖縄の原風景には平和祈念公園などが整備されています。

概要

面積
46.63km2
人口
61,117人(2022年2月1日)
市の木
ガジュマル
市の花
日日草
市の花木
ブーゲンビレア
市の魚
ハマフエフキ(方言名:タマン)
地図

歴史

アジア太平洋戦争の末期に米軍は嘉手納の海岸に上陸し、日本軍は南部に追い詰められていきました。日本軍は戦闘を継続することができず解散し、沖縄戦は終わりを迎えました。残された日本兵や日本軍とともに行動した一般人は投降することを恥じ、手りゅう弾による自決や万歳と叫びながら喜屋武岬に身投げして多くの人が命を絶ちました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

日本最南端の縄文時代である摩文仁ハンタ原遺跡から85体に及ぶ縄文人骨や貝製装身具類などが出土しています。弥生時代から平安時代の真栄里貝塚やフェンサ城貝塚、米須貝塚から土器や石器のほか貝製品が出土しています。

沖縄県糸満市の米須貝塚

米須貝塚

海岸砂丘地に形成された弥生~平安並行時代の貝塚で、貝塚時代後期系の土器、貝錘、貝匙、石斧、摩石、石皿等が検出されています。

古墳時代、飛鳥時代

沖縄では稲作が普及せず、日本の平安時代まで狩猟採集の生活が行われていたと言われています。

奈良時代、平安時代

稲作の広まりにより各地に集落が造られ、集落は統合されて按司と呼ばれる有力者が生まれました。

鎌倉時代、南北朝時代

大里按司をはじめとする承察度・汪応祖・他魯毎と続いた南山王統が成立し、洪武13年(1380年)に承察度が中国に朝貢して進貢貿易を展開しました。

室町時代、安土桃山時代

宣徳4年(1429年)に中山王の尚巴志が南山王の他魯毎を滅ぼし、三山が統一されて第一尚氏王統による琉球王朝が成立しました。糸満市域は摩文仁間切・兼城間切・高嶺間切・真壁間切・喜屋武間切の5つの間切に分かれていました。

沖縄県糸満市の具志川城跡

具志川城跡

沖縄本島最南端の喜屋武岬の海岸断崖に位置し、三方を海に囲まれる城です。築城年代は不明ですが、13~15世紀の中国製陶磁器が見つかります。

沖縄県糸満市の山巓毛公園

山巓毛公園

糸満ロータリーの北側にある石灰岩の小さな丘で、中山に攻められた南山王の他魯毎が妻子とともに自害した場所として伝えられています。

沖縄県糸満市の白銀堂・御堂前

白銀堂

沖縄の神官が祈りを捧げる拝所です。白銀堂の鳥居をくぐると岩穴を祀るイビがあり、今ではむやみに入ることができないよう囲いが設けられています。

江戸時代

潜水漁業で貝類や海藻類を獲るほか、鮫やイカ、トビウオなどを中心に漁業が行われました。漁業には丸太を刳り抜いたマルキンニが使われ、漁獲された鮫のヒレを加工したフカヒレ、ナマコやスルメなどが中国との進貢貿易品となりました。幕末にはジョン万次郎が鎖国中の日本に上陸する地としました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治5年(1872年)に設置された琉球藩は、明治12年(1879年)に沖縄県となりました。明治17年(1884年)頃に玉城保太郎がミーカガン(水中めがね)を開発し、明治23年(1890年)に大型の追い込み漁が考案されたことで漁業が進展し、明治35年(1902年)には糸満漁民が沖縄の漁業者の6割を占めました。昭和19年(1944年)から米軍が那覇を中心に猛烈な爆撃を行い、嘉手納の海岸から上陸した米軍が日本軍や県民を追い詰めていきました。沖縄戦で日本軍9万人と県民十数万が戦死し、糸満市民の4割を超える尊い命が失われました。昭和46年(1971年)に糸満市が誕生した翌年に若夏国体が開催され、昭和50年(1975年)に国際海洋博覧会が開催されました。

ひめゆり学徒隊

昭和20年(1945年)に沖縄戦が本格的に始まると、沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校の学生でひめゆり学徒隊が結成されました。ひめゆり学徒隊は13~19歳の女学生で構成され、南風原の沖縄陸軍病院で日本兵の治療に従事しました。うめき声、血生臭い匂いが立ち込める薄暗い地下壕の中で包帯交換や傷口に湧いたウジの除去などを行い、飯あげ場で炊かれた重さ14キロにもなる飯樽を毎日命がけで地下壕まで運びました。医薬品が不足して麻酔なしの手術で暴れる兵士を抑え、戦況悪化に伴い病院が沖縄南部に移転するときには重症者に青酸カリを混入したミルクを配る辛い役目も担いました。沖縄南部に病院が移転されて間もなく、突然ひめゆり学徒隊は解散命令が言い渡されて行き場を失いました。ひめゆり学徒隊は沖縄戦で240名のうち136名が亡くなりましたが、このうち86%にあたる117名は解散命令後に身投げや手りゅう弾の自決で亡くなりました。

沖縄県糸満市の喜屋武海岸及び荒崎海岸

喜屋武海岸及び荒崎海岸

高さ10~20メートルの断崖が切り立つ岬で、沖縄戦最後の激戦地となりました。バンザイクリフとも呼ばれ、追い詰められた兵士らが万歳と叫んで海に身を投げました。

沖縄県糸満市のひめゆりの塔

ひめゆりの塔

太平洋戦争の末期に起きた沖縄戦で日本軍に従軍して看護活動などを行ったひめゆり学徒隊の遺骨が納められている慰霊塔です。

沖縄県糸満市の琉球ガラス村

琉球ガラス村

昭和60年(1985年)に開店した沖縄最大の琉球ガラス工房です。琉球ガラスは戦後に米軍が持ち込んだコーラやビールの廃瓶が使用されて色彩豊かになりました。