宜野湾市

宜野湾市は沖縄本島の中南部に位置し、西部は東シナ海に面する珊瑚礁が発達して遠浅な海岸線を有します。沖縄本島の中部及び北部を結ぶ交通上の重要な位置にあり、中央部と北部の米軍基地が市域の3割を占めています。
概要
- 面積
- 19.80km2
- 人口
- 100,264人(2022年2月1日)
- 市の木
- リュウキュウコクタン
- 市の花
- キク
- 市の花木
- サンダンカ
- 地図
歴史
琉球王国時代に村行政の中心地として発展し、普天間宮の門前町として栄えました。アジア太平洋戦争では米軍と激戦が繰り広げられました。現在は琉球大学、沖縄国際大学、沖縄コンベンションセンターが整備されるなど県内の高次都市機能を担います。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代

マヤーガマ洞穴遺跡
洞穴に住む魔物がマヤー(猫)に化けて大山村の子供たちを神隠しにしました。村人たちはマヤーをガマ(洞穴)の甕の中に追い込み、その甕を封じた伝説が残ります。

大山貝塚
沖縄本島西海岸をのぞむ丘陵斜面の下のテラス状の平地にあります。貝層は50センチほど堆積しており、石器・土器・骨製品などが出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
沖縄では稲作が普及せず、日本の平安時代まで狩猟採集の生活が行われていたと言われています。
奈良時代、平安時代
狩猟採集の生活が終わりを迎え、稲作が広まるにつれて各地に集落が造られました。
鎌倉時代、南北朝時代
各地の集落は統合されていき、大集落には按司と呼ばれる有力者が生まれました。
室町時代、安土桃山時代
至治元年(1321年)に浦添間切謝名の奥間大親と伝説上の天女・飛衣の子として察度が生まれました。至治10年(1350年)に察度は中山王に即位し、明洪武5年(1372年)に明にはじめて入貢しました。度王統は尚巴志に滅ぼされ、宣徳4年(1429年)に尚巴志が北山、中山、南山の三山統一を果たしました。
普天満女神の伝説
首里桃原に2人の仲の良い姉妹がいました。姉は気立てが良く美しい女性でしたが、他人に顔を見られることを大変嫌がり、外出することはありませんでした。やがて結婚した妹の夫は妻の姉の顔を見たいと思うようになり、妻が実家に帰省したときに密かに妻の姉の姿を見てしまいました。のぞき見されたことに気づいた姉は、家を飛び出して山森を越え、ついに普天満宮の鍾乳洞穴に吸い込まれるように姿を消しました。これ以来、姉は普天満宮の永遠の女神となりました。

宜野湾市森の川
奥間大親が沐浴中の天女から羽衣を隠して妻として一男一女をもうけました。天女は羽衣を見つけて天に戻りますが、二人の子供のうち男子の察度が中山王となりました。

普天間宮
琉球古神道神と熊野権現を祀る琉球八社の一つです。沖縄県中部最大の聖地として琉球王国時代は国王が参拝しています。
江戸時代
万暦37年(1609年)に薩摩の島津氏が侵攻して、国王以下重臣たち鹿児島に連行されました。順治17年(1660年)に宜野湾を含む浦添間切は中頭方代官の管轄となりました。康煕10年(1671年)に宜野湾間切が新設された際に間切番所が置かれました。

大山御嶽
ニライカナイ信仰により沖縄各地には神に祈りを捧げる御嶽が設けられました。乾隆26年(1761年)に大山御嶽の碑が建立されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治5年(1872年)に琉球王国は琉球藩となり、明治12年(1879年)の琉球処分で沖縄県に属しました。明治20年(1945年)のアジア太平洋戦争では米軍が沖縄本島の中部西海岸から上陸して普天間方面に進軍し、嘉数方面は激戦となり米軍は22台の戦車を失う大規模な戦闘となりました。市域の主要部分が米軍基地として接収されました。昭和37年(1962年)に宜野湾市が誕生してから沖縄国際大学や琉球大学が立地し、沖縄コンベンションセンターが整備されて県内の高次都市機能の一部を担う重要な地域に変化しつつあります。

嘉数高台公園
米国戦史には嘉数地区の戦闘は沖縄戦で最大の損害と記されています。戦闘後に日本軍は浦添の前田高地に撤退し、戦線は浦添、西原、首里から南部方面へと移りました。

普天間基地
昭和37年(1962年)に普天間基地にはフェンスが設置されるなど基地としての形態となりました。嘉数高台公園の展望台からは普天間基地が眼下に眺められます。
喜友名集落
康煕10年(1671年)に宜野湾間切が誕生し、喜友名集落が浦添間切から移されて碁盤目のように区画整理されました。喜友名集落は喜友名七泉と呼ばれる湧水に恵まれていましたが、水源が険しい斜面の下にあるため、他集落から喜友名に嫁に行くことを反対する家族も多くいました。
喜友名の石獅子群
喜友名集落には七つの石獅子が集落を取り囲むように配置されています。この石獅子は厄や忌み嫌われるものが入らないように設置された反し(ケーシ)で、ヤナムンゲーシやアシゲーシと呼ばれています。焼き物のシーサーとは違い、琉球石灰岩で作られた獅子は表情豊かです。喜友名の石獅子群は宜野湾市の有形民俗文化財に指定されています。

喜友名泉
喜友名泉(チュンナーガー)は米軍基地(キャンプ瑞慶覧)の敷地にある共同湧泉で、県道沿いの湧水の麓に男の泉ウフガーと女の泉カーグゥーがあります。

メートーヤマ前のシーサー
ウィユクイビラと呼ばれているところにあり、喜友名泉から集落までの道の途中にある休み場所の一つでした。夕方になると集落の男女が集まる憩いの場でした。

ナカムトゥ前のシーサー
仲元家の玄関近くの台座に安置されており、仲元家の前にあるシーサーということから名付けられました。

メントー前のシーサー
普天間基地の近くにあります。別なところから現在の場所に移動されましたが、風化が進んでいて岩にしか見えません。

メーマシチ前のシーサー
普天間基地のフェンス工事で現在の位置に移されました。メーマシチ前のシーサーは風化が激しくて顔があまり分かりません。

クラニーグァー前のシーサー
他のシーサーに比べて口がクチバシのように張り出しています。この石獅子だけは部落内に設置されていたようです。

イリーグァー前のシーサー
琉球石灰岩は柔らかくて衝撃に弱いため、長い風雨にさらされて顔の判別ができない状態で保存されています。

トゥクイリーグァー前のシーサー
7体ある喜友名の石獅子群の中で最も大型で一番原型を留めているシーサーだと思います。
