ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

水俣市

熊本県水俣市街

水俣市は熊本県の最南端に位置し、西側を除いて矢城山、大関山、矢筈岳などの山に囲まれ、わずかに水俣川河口に開けた平地が八代海(不知火海)に面しています。市域の7割は山地が占め、山間部は茶やハゼの栽培が盛んで国産紅茶発祥の地とされます。海岸線はリアス式海岸を形成し、工場建設が進んだことで小さな農漁村から工業都市へと変化しました。

概要

面積
163.29km2
人口
22,912人(2022年2月1日)
市の木
さくら
市の花
つつじ
地図

歴史

水俣市は薩摩国と肥後国を結ぶ薩摩街道に位置する小さな漁村に過ぎませんでした。明治時代になり鹿児島県の金山開発で必要な石炭を運ぶ集積港として開発され、次第に工業地帯として発展していきました。昭和時代になると工場廃水を海に流したことで水俣病が引き起こされました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

2万数千年前から人の営みがあり、高原地帯にある石飛遺跡などでは旧石器時代のナイフ形石器などが確認されています。やがて南福寺などの低地に移住して生活するようになり<、縄文時代には南福寺貝塚や山上遺跡などが形成しました。弥生時代に稲作が伝わりますが、集落遺跡は発見されていません。特徴的なものとして初野貝塚、北園貝塚、平貝塚などがあり、古城遺跡や長野遺跡から土器片が見つかります。

熊本県水俣市の南福寺貝塚

南福寺貝塚

縄文時代中期から後期にかけての貝塚で、かつての海岸線は内陸まで入り込んでいたことを裏付けます。出土した土器は縄文時代後期の南福寺式土器と設定されました。

熊本県水俣市の初野貝塚

初野貝塚

水俣川沿いの台地に造営された弥生時代中期から後期、古墳時代前期の貝塚で、現在は初野神社が鎮座しています。発掘調査により免田式土器が確認されています。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代も弥生時代と同じく陳内、古城、長野、初野にかけてのシラス台地上に遺跡が残されています。北園上野古墳群からは29の板石積石棺墓とその周囲から17の竪穴建物跡が見つかり、北九州と南九州の文化交流で独自の文化が発展したと考えられています。

熊本県水俣市の初野古墳群

初野古墳群

初野貝塚の隣には5世紀中期に地下式板積石室の初野古墳群が造営されました。調査された5基のうち2基は初野神社の境内に移転復元されています。

奈良時代、平安時代

律令体制の成立に伴い7世紀末に肥後国ができ、交通の要衝にあたる水俣と仁王に駅家が置かれました。律令体制が崩壊して荘園が形成されると、豪族らが武士団を形成していきました。平家が威勢を強めて九州支配を強化していくと、治承4年(1180年)に菊池隆直が平家に反乱を起こして水俣四郎もこれに呼応しました。水俣四郎は水俣城の前身となる砦を築き原田種直と戦いましたが、菊池氏らは平家に敗れて水俣氏は平家に下りました。

熊本県水俣市の湯の鶴温泉

湯の鶴温泉

水俣市南東の山間部にある湯の鶴温泉は、700年前に平家の落人が傷ついた鶴が湯あみするのを見て開湯したとされ、古くから湯治場として親しまれてきました。

鎌倉時代、南北朝時代

南北朝時代に八代を拠点とする名和顕興は南朝方に与して、正平13年(1349年)に名和氏家臣の本郷家久が水俣城主となりました。征西将軍として九州に派遣された懐良親王は、北福寺・西福寺・東福寺・公正寺・南福寺の水俣五山を開きました。やがて南朝方は九州探題に任じられた今川了俊に追い詰められ、明徳2年(1391年)に八代古麓城が落城したことで降伏し、肥後国の南北朝時代は終わりを迎えました。

室町時代、安土桃山時代

肥後国は大友氏、阿蘇氏、名和氏、相良氏の勢力が乱立する状態にありました。芦北侵攻を狙う相良氏は、永禄4年(1460年)に名和氏を滅ぼして水俣城を支配下に置き、八代海を利用して琉球や中国(明)と貿易を行いました。弘治3年(1557年)に上村頼孝らが水俣城に籠り相良義陽に反旗を翻すこともありました。天正9年(1581年)には島津氏の侵攻に対して犬童頼安が水俣城に籠城しましたが、相良義陽は葦北郡を島津氏に割譲して降伏しました。

豊臣秀吉の九州征伐

天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐により、芦北郡は豊臣秀吉の直轄領として深水長智が代官となりました。深水長智が死去すると相良家家臣が引継ぎ、文禄2年(1593年)には唐津領主寺沢広高の代官領となりました。慶長3年(1598年)には寺沢領となりましたが、翌年には小西行長の領地となりました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにより加藤清正の領地となり、水俣城は支城のひとつとして改修されました。

熊本県水俣市の水俣城本丸跡

水俣城井戸跡

天正9年(1581年)に島津義久の大軍に攻められて落城しましたが、加藤清正が隈本城の支城の一つとして改修しています。現在は石垣の一部と井戸跡が残されています。

江戸時代

肥後国を与えられた加藤氏が改易処分となると、寛永9年(1632年)に細川忠利が肥後藩主となり細川家が統治しました。水俣は薩摩藩を警戒する軍事的に重要な拠点で、浜村や陣内村が薩摩街道の宿駅として栄えたほか、番所が設けられて人や荷物が検査されました。江戸時代初期には馬刀潟新地などの干拓地が造成され、干満差が激しい土地を活かして水俣塩が生産されるようになり、明治43年(1910年)まで塩づくりが続けられました。海岸部まで迫る山地では、温暖で水かけが良い台地を利用して茶やハゼの栽培が盛んになり、ハゼは日本有数の産地として知られています。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると薩軍が伊佐を重要拠点としたため、政府軍は水俣を拠点として久木野、石坂川、深川、鬼岳などの薩摩との境界や大関山などの山間地、市街地に迫る中尾山などで激しい戦いとなりました。西南戦争の終結に伴い殖産興業を推進する明治政府は、鹿児島県の金山開発で必要な石炭を運ぶため、小さな農漁村を開発して集積地としました。

水俣病

明治41年(1908年)に日本窒素肥料の工場が設立されてから人口が急速に増加し、工業都市として発展していきました。地元の工場で作られていた製品はテレビ・冷蔵庫・洗濯機の三種の神器に役立てられましたが、メチル水銀を含んだ廃液を海に流したことで健康被害や環境汚染が現れ、昭和31年(1956年)に水俣病として公式確認されました。

熊本県水俣市の陣内官軍墓地

陣内官軍墓地

明治10年(1877年)に伊佐市の高隈山の戦闘で戦死した東京、名古屋、大阪の各鎮台及び近衛所属の将兵の墓碑が並びます。

熊本県水俣市の徳富蘇峰・徳冨蘆花生家

徳富蘇峰・徳冨蘆花生家

惣庄屋と代官を務める家柄で、徳富蘇峰は明治維新から戦後の高度経済成長期までジャーナリストとして、弟蘆花は小説家として活躍しました。

熊本県水俣市の不知火湾

不知火湾

戦後の経済成長に工業都市となる水俣では、チッソ工場が水銀を含む有害な工場排水を海に流して公害が発生しました。