ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

八代市

熊本県八代市の八代城

八代市は熊本県南部に位置し、東は九州山地が連なり西は八代海(不知火海)に面します。日本三大急流のひとつ球磨川や火の国発祥の地とされる氷川が流れ、干拓により広げられた八代平野を潤します。市域面積の3割を占める平地は全国有数の農業生産地と県内有数の工業地帯を形成し、畳表の原草であるい草の生産量は八代平野が日本一を誇ります。

概要

面積
681.36km2
人口
121,291人(2022年2月1日)
市の木
ばんぺいゆ
市の花
さくら
市の鳥
かわせみ
市民の花
ヤツシロソウ
市民の歌
陽は昇る
市の愛唱歌
わたしのまちは
地図

歴史

広大な平野を有する水陸の交通の拠点であり、古くから有力勢力の争奪地となりました。戦乱の時代が終わると八代海の干潟を干拓する事業が続けられ、全国有数の農業生産地となる肥沃な農地が生まれました。沿岸部では工場建設が進み、県内有数の工業地帯を形成していきました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

縄文時代中期から晩期にかけて、孤島に産島貝塚や高島遺跡が営まれたほか、八代平野では縄文時代中期から晩期の有佐貝塚や五反田遺跡などのほか、縄文時代晩期の川田小筑遺跡や鐘楼堂遺跡が見られます。弥生時代になると球磨川の堆積物により形成された微高地で人が生活するようになり、弥生時代前期には島田遺跡が営まれました。弥生時代後期には鐘楼堂貝塚から弥生時代後期の壺形土器や高杯が出土し、上日置女夫木遺跡には弥生時代後期の大規模な集落跡とともに青銅製の小銅鐸が見つかりました。

熊本県八代市の八代平野

八代平野

平地が広がり不知火海に面する八代は古来より水陸の交通の要衝で、約2万年前より人が生活していたと考えられています。

熊本県八代市の走リ水ノ瀧

走リ水ノ瀧

落差100メートルの滝で、板の平集落から見ると白く見えたことから白滝とも呼ばれ、古くから景勝地として知られています。

古墳時代、飛鳥時代

球磨川右岸の平野部に多くの古墳が形成されていき、八代平野最大の古墳と考えられている茶臼山古墳、現況で最大の高取上の山古墳、ボウ製捩文帯鏡が発掘された五反田古墳などが造営されました。球磨川左岸の平野部では、 鼠蔵古墳群や五反田・田川内古墳などで横穴式石室や箱式石棺の内側に円文などを刻んだ装飾古墳が見られるようになりました。4世紀の仁徳天皇時代に中国から九千匹の河童が揚子江を下り黄海を経て上陸した伝説が残されています。

熊本県八代市の大鼠蔵古墳群

大鼠蔵古墳群

かつての小島にある大鼠蔵古墳群は4~6世紀に築造された15基からなり、竪穴式石室から人骨、剣、刀子、鏃、碧玉製紡錘車などが出土しました。

熊本県八代市の田川内第一号古墳

田川内第一号古墳

田川内第一号古墳は5世紀後半に造営された豪族の墓で、横穴式石室の内部に装飾が施されていることで知られています。

熊本県八代市の八代大塚古墳

八代大塚古墳

6世紀中頃に築造された八代平野で最も大きな前方後円墳です。女性の頭部を現した埴輪は、まげを結い、頬に赤い色を塗り、耳に耳飾りをつける貴重なものでした。

奈良時代、平安時代

律令体制の成立で八代郡が置かれ、7世紀に郡寺として興善寺が造営されました。以降も能寺、護神寺などの古代寺院が建立され、延暦14年(795年)には妙見上宮が造営されました。万葉集の歌人である長田王は、野坂乃浦から水島に渡海したときに水島の歌を残しています。八代荘の成立は不明ですが、平家が滅亡してからは平家から源頼朝の実妹の一条能保室に伝領されました。

熊本県八代市の水島

水島

景光天皇が訪れた際、お供していた小佐という人が天地の神に祈げたところ、冷水が湧き出して天皇に水を捧げた逸話から名付けられました。

熊本県八代市の妙見上宮跡

妙見上宮跡

妙見上宮跡は八代で最古の寺院と言われています。中央基壇の東方から平安時代中期のものと見られる布目瓦が多数出土しています。

鎌倉時代、南北朝時代

八代荘は一条氏から北条得宗家か有力一門の領地へと移り変わりました。南北朝時代に入ると、建武元年(1334年)に伯耆国で海運業を営んでいた名和義高が八代荘の地頭に任じられ、翌年には代官として一族の内河義真が下向しました。名和氏は古麓城を築城して城下町を整備し、建武2年(1335年)に敷川内村を出雲大社に寄進しました。名和家の家臣園田宗林は田川内城を居城としましたが、南北朝時代の争乱で千代永城主桑原能登守に敗れて戦死しました。正平元年(1346年)に高田御所跡に館を構えた中院義定は、阿蘇氏や恵良氏を説得して後醍醐天皇の皇子・懐良親王を迎え、懐良親王は薩摩の谷山から肥後へ入り、征西将軍として九州の南朝方の中心として活躍しました。

熊本県八代市の懐良親王陵

懐良親王陵

懐良親王は後醍醐天皇の皇子で、征西将軍として九州の南朝方を束ねました。弘和3年(1383年)に逝去して、良成親王の命で肥後国守護菊池武朝が陵墓を造営しました。

室町時代、安土桃山時代

文明16年(1484年)に相良為続は古麓城を攻め落として名和氏を追放しましたが、明応8年(1499年)に肥後国守護の菊池能運の援助により名和顕忠が八代に復帰しました。永正元年(1504年)に相良長毎が古麓城に入城して八代を支配下に置き、永正2年(1505年)に上土城主岩崎主馬忠久が領内にい草栽培を創始しています。天正9年(1581年)に相良義陽が響野原で戦死すると島津氏が治めるようになり、天正10年(1582年)に島津義弘を肥後国守護代に据えて、古麓城には平田光宗が常駐しました。

小西領から加藤領へ

天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐で島津氏が八代を追われると、肥後国で最も栄えていた八代は佐々成政に与えられました。佐々成政が肥後国人一揆の責任で切腹すると肥後国南部は小西行長に与えられましたが、関ヶ原の戦いで小西家が滅亡して加藤清正が肥後一国の領主となりました。

熊本県八代市の八代城跡(古麓城跡)

古麓城跡

名和氏が本拠としていました。相良氏が支配下に置くと天文3年(1534年)に相良長唯が城の大規模な整備と城下町の整備を行いました。

熊本県八代市の八代城跡(麦島城跡)

麦島城跡

小西行長は古麓城を廃城して天正16年(1588年)に麦島城を築城して拠点としました。小西家が改易されると慶長17年(1612年)に城代として加藤正方が入りました。

江戸時代

元和5年(1619年)に大地震で麦島城が崩落したため、熊本藩主加藤忠広は元和8年(1622年)に八代城(松江城)を完成させました。寛永9年(1632年)に加藤氏が改易されて細川忠利が肥後領主となると、その父細川忠興(三斎)が隠居所として八代城に入城しました。

種山石工

種山手永(現東陽町)に居住していたとされる種山石工は、精巧な石積技術で各地に石橋を掛けました。岩永三五郎は優れた技術で鑑内橋を始め、薩摩藩内の甲突川に架けられた五大石橋などを手掛けました。嘉永元年(1848年)には橋本嘉八が鹿路橋、明治2年(1869年)には橋本丈八が笠松橋を架橋しています。

熊本県八代市の八代城跡

八代城跡

加藤家改易後に細川忠興の隠居所となり、正保3年(1646年)に熊本藩筆頭家老・松井興長が八代城に入城して北の丸の泰勝院を宗雲寺と改めて松井家の菩提寺としました。

熊本県八代市の高田焼平山窯

高田焼平山窯

寛永9年(1632年)に朝鮮陶工尊楷(上野喜蔵)が奈良木窯で始めた八代焼は、万治元年(1658年)に息子の忠兵衛・徳兵衛により平山に移されました。

熊本県八代市の旧熊本藩八代城主浜御茶屋(松浜軒)庭園

旧熊本藩八代城主浜御茶屋(松浜軒)庭園

元禄元年(1688年)に八代領主の松井直之は母崇芳院尼のために御茶屋を建て、八代海を見渡す浜辺に近いことから松浜軒と名付けられました。

熊本県八代市の大鞘樋門群

大鞘樋門群

文政2年(1819年)に惣庄屋の鹿子木量平が指導して建造された堅牢な樋門です。干拓地の排水を行い多くの新田が開かれたほか、精巧な石積み技術が育まれました。

熊本県八代市の今泉製鉄跡

今泉製鉄跡

嘉永2年(1849年)には八代藩の御用製鉄所で、たたら製鉄により鹿児島県長島から運ばれた砂鉄を鉄に精製しました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で八代県となり、明治6年(1873年)の白川県の編入を経て、明治9年(1876年)に熊本県と改められました。明治10年(1877年)の西南戦争で市域は激戦地となりました。明治23年(1890年)に旧日本セメントが八代工場を建設して工業化が進むと、明治29年(1896年)には熊本・八代間に鹿児島本線が開通しました。明治33年(1900年)に川口虎雄が設計した樋門が3か所建設され、明治37年(1904年)に郡築新地の干拓事業が完成しました。昭和15年(1940年)に誕生した八代市は、昭和20年(1945年)に空襲で大きな被害を受けつつも、昭和55年(1980年)に九州縦貫自動車道が開通するなど発展を続けています。

熊本県八代市のシャルトル聖パウロ修道院

シャルトル聖パウロ修道院

貧しい病人や孤児の救護を行うスール(シスター)の修道院としてシャルトル聖パウロ修道院が設立されました。

熊本県八代市の日奈久温泉

日奈久温泉

応永16年(1409年)に浜田六郎が発見したとされ、父浜田右近の刀傷を平癒した伝説があります。明治42年(1902年)に金波楼が建築されました。