安芸郡

安芸郡は広島県の南西部に位置する府中町、海田町、熊野町、坂町で構成され、このうち府中町は広島市に囲まれて安芸郡の飛び地を形成しています。熊野筆の生産地として知られる熊野町は筆の生産は日本一を誇り、府中町は自動車メーカーのマツダの本社と関連施設が置かれています。
概要
- 面積
- 73.65km2
- 人口
- 116,977人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 府中町、海田町、熊野町、坂町
- 地図
歴史
奈良時代に府中町に安芸国府が置かれていました。江戸時代に旧山陽道に宿場町が設けられ、熊野筆の生産で知られるようになりました。昭和時代に自動車メーカーのマツダの前身である東洋工業が移転して発展し、広島市のベッドタウンとして人口が増加しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
下岡田遺跡から小型のナイフ形石器が出土し、東深原遺跡から局部磨製石斧が出土しています。縄文時代にはハグイ原遺跡や道上遺跡などから石器などが見つかり、畑谷貝塚から黒曜石製石鏃が出土しました。弥生時代には東谷遺跡や白石遺跡などから弥生土器が出土しています。
古墳時代、飛鳥時代
3世紀から4世紀にかけて上安井古墳が築造され、5世紀には三ツ城古墳が造営されました。6世紀に小請山古墳群や西谷古墳群のほか植田古墳が築造し、7世紀前半に畝観音免古墳群が築造されています。古墳時代後期の上岡田古墳や道隆寺東古墳などが造営されました。
奈良時代、平安時代
律令体制の成立に伴い、府中町に安芸国府が置かれたと考えられています。海田町には開田荘が形成して八条院領となり、安摩荘は皇室領荘園となりました。平安時代末期には安芸国衙の田所職を世襲した田所氏が勢力を有し、水分神社遺跡は巨石を対象とした信仰遺跡と考えられており、中国製の白磁壺などが見つかりました。

下岡田官衙遺跡
山陽道駅路につけられた下岡田官衙遺跡からは瓦葺礎石建物2棟が確認されており、8世紀中頃に国が設置した安芸駅家である可能性が極めて高いと言われます。
鎌倉時代、南北朝時代
全国各地に守護と地頭が置かれ、安芸国には宗孝親が守護となりましたが、承久3年(1221年)の承久の乱以降は武田信光が安芸国守護となり実権を握り、阿曽沼親綱や香川経景らが地頭として進出しました。南北朝時代に田所氏の一族である石井氏が石井城を拠点に各地で転戦しましたが、延元元年/建武3年(1336年)の湊川の戦いで楠木正成とともに戦死したとされます。同年に北朝の武田信武らは南朝の熊谷蓮覚を矢野城合戦で破り、北畠親房は海田荘を蓮華院に寄進しました。
室町時代、安土桃山時代
武田氏の被官である白井氏は出張城を拠点として海上に勢力を広げましたが、天文10年(1541年)に大内軍に敗れて、享保2年(1528年)から大内氏に転じています。白井氏は大内方として周防大島に拠点を移し、のちに毛利氏の小早川水軍に組み込まれました。文安2年(1445年)に野間重能が矢野を与えられ、大永3年(1523年)に野間氏は尼子経久の傘下に加わりましたが、弘治元年(1555年)に野間隆実が毛利元就に滅ぼされて滅亡しました。
江戸時代
福島正則が安芸国と備後国を領して検地や城下町の整備を進めましたが、元和5年(1619年)に広島城の無断改修で改易となり、浅野長晟が安芸国を与えられました。新田開発や道路の整備が進み、山陽道は参勤交代などで人が往来する重要な幹線となりました。享保17年(1732年)の大凶作で広島藩内で多くの餓死者が出たため、享保20年(1735年)に海田市の儒学者・加藤友益が社倉攷意を著しました。天保9年(1838年)に佐々木為次が毛筆製造技術をもたらし、熊野町で製造される毛筆は熊野筆と呼ばれました。

海田市の一里塚
寛永10年(1633年)に西国街道が整備された際に一里ごとに塚が設けられました。街道の両側に直径6メートルほどの塚が設けられ、松の木が2本ずつ植えられました。

千葉家庭園
千葉信胤は大内氏から毛利氏に属して小早川隆景の配下として活躍しました。海田に住むようになり、江戸時代には幕府の公文書や荷物などを継送する役目を担いました。

三宅家住宅
三宅家は屋号を新宅屋といい、農業を基盤としながら金融業などを営みました。三宅家住宅は裏長屋門や土蔵群などとともに、当時の商家の屋敷構えを良く残されています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治36年(1903年)に呉線が開通しました。昭和3年(1928年)に海田市町出身の織田幹雄がアムステルダムオリンピックの三段跳びで優勝し、日本人初のオリンピック金メダリストとなりました。昭和6年(1931年)に東洋工業(現マツダ)の本社が移転するなど近代産業が発展しました。アジア太平洋戦争が始まると東洋工業は陸海軍共同管理工場に指定され、軍部の管理を受けて小銃を生産していました。昭和30年代から広島市のベッドタウンとして人口増加が続きました。
