三次市

三次市は中国地方のほぼ中央にあり、広島県の北部に位置します。三次盆地を中心とした山間部にあり、山陽と山陰を結ぶ道路交通網が形成しています。江の川(可愛川)を本流として神野瀬川などの支流が三次盆地の中央部で合流し、中国山地を横断して日本海に注いでいます。内陸性気候に属して夏は気温が上がり冬は降雪を伴い、特に北部は豪雪地帯に指定されています。
概要
- 面積
- 778.14km2
- 人口
- 49,665人(2022年2月1日)
- 市の木
- モミジ
- 市の花
- サクラ
- 市の花
- セグロセキレイ
- 地図
歴史
旧石器時代から人の営みが残されています。古墳時代には多くの古墳が造営され、広島県にある古墳の3分の1にあたる4千基が確認されています。山陽と山陰の交通の要衝に位置するため、中世には尼子氏や大内氏、毛利氏の抗争の場となりました。江戸時代に三次藩が成立して現在につながる町が整備されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
三次市では旧石器時代から人の営みがあり、下本谷遺跡で発掘された石器は日本列島最古級と考えられています。縄文時代には重岡山遺跡などの小高い丘の上に竪穴式住居を建て、網による川漁や落とし穴などで食糧を確保しました。弥生時代には殿山墳墓群などで四隅突出型墳丘墓が造られるようになりました。

常清滝
中生代白亜紀の中期に噴出した流紋岩の断崖にかかる落差126メートルの名瀑で、荒波、白糸、玉水の三段にわけて水が流れ落ちています。

花園遺跡
弥生時代中期から後期に作られた墳墓群で、第1号台状墓からは土壙墓・箱形石棺など215基以上が見つかりました。

陣山墳墓群
弥生時代中期後葉から弥生時代終末にかけて馬洗川北側の丘陵に築造された墳墓群で、5基の四隅突出型墳丘墓と塩町式土器が見つかりました。

矢谷古墳
三次盆地南縁の丘陵にある四隅突出型墳丘墓を2基合わせたような特異な形をした墳丘墓です。古墳が出現する前の木棺7基や箱式石棺2基、土壙などが見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
4世紀末から5世紀初頭にかけて下山手第5号古墳が造営され、5世紀後半になると県内最大規模の172基の古墳からなる浄楽寺・七ツ塚古墳群や県内最大規模の帆立貝形古墳である糸井大塚古墳などが造営されました。6世紀には緑岩古墳などが造営されていき、広島県内の古墳の数の3分の1にあたる4千基以上が築造されました。

岩脇古墳
高谷山の麓近くに築造された5世紀前半の大型円墳で、竪穴式石室1基とその周囲から箱式石棺4基、石蓋土壙墓1基の合計6つの埋葬施設が見つかりました。

糸井大塚古墳
美波羅川が形成した河岸段丘上の水田地帯にあります。40基以上の糸井古墳群のひとつで、5世紀前半に築造された県内最大の帆立貝形古墳です。

若宮古墳
三次地域では少ない典型的な前方後円墳です。未調査のため現状では時期が特定されていませんが、三次地域で最も早く前期に築造された可能性があります。

浄楽寺・七ツ塚古墳群
三次盆地南東の丘陵にある県内屈指の群集墓で、5世紀から6世紀にかけて築造されました。浄楽寺古墳群は116基あり、七ツ塚古墳群は60基で構成されています。

三玉大塚古墳
吉舎地区の丘陵に7基の古墳が分布し、この中で最大のものが三玉大塚古墳です。5世紀後半頃に築造された帆立貝式古墳で、三次盆地でも最大級の規模のものです

酒屋高塚古墳
三次盆地南縁の丘陵先端部に築造された大型の帆立貝形古墳で、5世紀後半に築造されたと考えられています。古墳からは2基の竪穴式石室が見つかりました。

日光寺住居跡
6世紀後半頃の住居跡で竪穴式住居跡が3軒検出され、炉跡や竃などを備えていました。住居跡からは土師器や須恵器などが出土しました。
奈良時代、平安時代
飛鳥時代に備後国が成立して、三次市域は三次郡、三谿郡、甲奴郡の一部を形成しました。7世紀後半に仏教が普及して、寺町廃寺跡や上山手廃寺跡が建立され、これらの寺院の瓦を焼成した大当瓦窯跡が置かれました。下本谷遺跡は三次郡の郡衙跡とされ、7世紀末には寺戸廃寺跡も置かれました。

寺町廃寺跡
飛鳥時代末期に創建して平安時代まで存在した古代寺院跡です。平安時代前期に奈良薬師寺の僧侶景戒が編集した日本霊異記に記されている三谷寺と推定されています。

吉寺廃寺跡
吉舎町に位置する中世の寺院跡です。詳細は不明ですが、桁行5間・梁間3間の建物跡などが確認されたため広島県の史跡に指定されています。

下本谷遺跡
奈良時代から平安時代にかけて機能していた三次郡の郡衙跡です。柵内の中央部に郡司が政務を執る庁屋や生活の場である向屋のほか多数の倉庫群も発見されました。
鎌倉時代、南北朝時代
源氏の御家人が地頭として任命され、広沢氏や三吉氏が置かれました。鎌倉時代末期に広沢氏は和智氏と江田氏に分かれ、和智氏は南天山、江田氏は旗返山を居城としました。三吉氏は比叡比山に最初の居城を設け、南北朝時代には幕府奉公衆に名を連ねました。
室町時代、安土桃山時代
和智氏、江田氏、三吉氏は備後国守護の山名氏に属して行動しますが、大内氏や尼子氏の影響が強まると、この二大勢力の間で離合集散を繰り返すようになりました。大永7年(1527年)に尼子氏と大内氏による和智細沢山合戦では、和智氏と江田氏は大内方となり、三吉氏は尼子方に属しました。大内氏や尼子氏が衰退して毛利氏へと移り替わると、毛利氏は江田氏や祝氏を滅ぼして、和智氏や三吉氏は毛利家家臣団に組み込まれました。三次の鵜飼いは毛利元就に敗れた尼子の武士たちが始めたのが原型と言われています。

高杉城跡
知波夜比古神社境内を中心とする70メートル四方で遺構が確認されています。祝氏の居城と伝えられ、天文22年(1553年)には尼子氏と毛利氏の合戦が行われました。
江戸時代
関ヶ原の戦いにより福島正則の領地となり、その後浅野氏が統治するようになりました。寛永9年(1632年)に浅野長治が分家独立して三次藩が成立し、陣屋が置かれて碁盤目に町が整備されました。享保5年(1720年)に跡継ぎなく断絶したため三次藩は広島藩に吸収されました。和紙や砂鉄と木炭を原料にした製鉄が盛んで、中期からは牛馬の普及も進み、交通の便のよい三次の牛馬市は活気に溢れました。
稲生物怪録
三次には稲生物怪録と呼ばれる怪談話が残されています。寛延2年(1749年)に三次藩士の子・稲生平太郎は、友人の相撲取りとどちらが勇敢か肝試しをすることとなりました。比熊山には触れると祟りに遭うと言われる岩があり、その岩で妖怪を呼び出す百物語を試しました。これ以降、平太郎の屋敷では怪異が起こるようになりますが、平太郎は動じずに受け流しました。一月が過ぎると怪異の親玉である山本五郎左衛門が現れ、その勇気を称えて魔王を呼び寄出す木槌を与えました。この木槌は國前寺に寺宝として残されています。

下素麺屋一里塚
寛永10年(1633年)に旧出雲街道の整備が始められ、福山から出雲への道しるべとして下素麺屋一里塚が設けられました。現在は黒松の切株だけが残されています。

山家一里塚
旧雲石街道に設けられた一里塚で、石垣や水飲み場などの一部が残されています。かつては塚の上に聳えていた黒松は、蟹足の松と呼ばれていました。

中山一里塚
旧雲石街道に設けられた一里塚です。一里塚には榎や松などが植えられましたが、この一里塚には木が確認されておらず、道と塚状の高まりが残るのみです。

頼杏坪役宅
三次町奉行を務めていた頼杏坪が、文政11年(1828年)からおよそ2年間住んでいた家です。平和な時でも備えを忘れない中国の故事から運壁居と名付けられました。

三次社倉
明和7年(1770年)に広島藩は飢餓に備えて米や麦を備蓄する社倉制度を実施しました。三次社倉は頼杏坪の三次町奉行在職中に建造されたものです。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治5年(1872年)に廃藩置県で広島県の一部となりました。大正7年(1918年)に米騒動が起こり、広島県の全域に広がりました。昭和29年 (1954年) に三次市が誕生し、以降も合併を続けて現在の市域となりました。
