姫路市

姫路市は兵庫県南西部に位置し、北部は中国山地東部にあたり南部は播磨灘に面して大小40余りの島嶼からなる家島諸島があります。山間部から南流する揖保川などの河川が河岸段丘を発達させながら播磨平野を形成しました。西の比叡山と呼ばれた書写山圓教寺や世界遺産の姫路城があることで知られます。
概要
- 面積
- 534.48km2
- 人口
- 527,571人(2021年11月1日)
- 市の木
- カシ
- 市の花
- サギソウ
- 市の鳥
- シラサギ
- 市の蝶
- ジャコウアゲハ
- 市の歌
- 姫路市歌
- 地図
歴史
奈良時代に播磨国の中心地として国府が置かれ、播磨国分寺や書写山円教寺などの多くの寺院が建立されました。赤松氏が築いた砦は、羽柴秀吉が本格的な天守を築き、池田輝政が壮大な城郭に改修しました。姫路城は白く優美な姿から白鷺城と呼ばれ、平成5年(1993年)に世界遺産に登録されました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
市川東岸の別所村前遺跡から旧石器時代のナイフ形石器が出土したほか、大山神社遺跡など十数カ所でこの時代の遺跡が形成しました。縄文時代前期は平尻遺跡が残され、姫路平野には砂堆と呼ばれる縄文時代の海面上昇で形成した高まりが残されています。縄文時代後期には人骨が出土した辻井遺跡などが形成し、今宿丁田遺跡からは稲作文化を裏付ける籾の跡が残る土器が出土しています。弥生時代中期には丁柳ヶ瀬遺跡が形成して夢前町神種では銅鐸が出土し、弥生時代後期には畑田遺跡や和久遺跡などで大規模な集落が形成しました。

鹿ケ壺
渓谷の岩床が長い年月の間に侵食されてできた甌穴が大小数十個連なります。最も大きい水深が5メートルにも達する底なし壺は、瀬戸内海に通じている伝説があります。
古墳時代、飛鳥時代
弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけて、揖保川流域にはこの頃の最大規模の前方後円墳である瓢塚古墳などが形成しました。古墳時代中期には市川流域最大の前方後円墳である壇場山古墳が築造され、宮山古墳からは朝鮮半島から渡来した人の痕跡が残ります。

瓢塚古墳
古墳時代初期に築造された前方後円墳で、最古式の古墳としては播磨で最大規模を誇ります。後円部は三段に築成されていた可能性が指摘されています。

壇場山古墳
5世紀前半の前方後円墳で、周囲には陪塚の第1古墳と第2古墳があります。第3古墳は山之越古墳と呼ばれる方墳で、組合式長持型石棺や葺石・埴輪を備えています。

横山古墳群1、2号墳
5世紀前半頃に築造された円墳群で、西突端に位置する1号墳は未調査ながら竪穴式石室と推定され、その東に位置する2号墳からは組合式箱形石棺が2基出土している。

宮山古墳
尾根の突端に築造された古墳時代中期の大形円墳で、3基の竪穴式石室が存在しました。第3主体の木棺から画文帯神獣鏡、垂飾付耳飾1対、各種玉類などが出土しました。

諏訪の岩穴
市川中流左岸の段丘上にある6世紀前半と推定される前方後円墳です。横穴式石室としては古式のもので、片袖式の横穴式石室が南方に向かい開口しています。

片山古墳
6世紀半ばに築造されたと考えられる前方後円墳で、付近には数基の古墳が存在しています。主体部は横穴式石室が存在する可能性も指摘されています。

見野長塚古墳
6世紀代に築造された前方後円墳で、後円部と前方部にそれぞれ東に口をもつ横穴式石室が1基ずつ存在し、装飾付壷杯蓋や内行花文鏡などが出土しました。

御輿塚古墳
広嶺山麓の大地上に築かれた古墳時代末期の7世紀前半頃に築造された円墳で、南に開口する横穴式石室を有し、玄室内に組合式家形石棺が安置されています。

塩野六角古墳附塩野古墳
塩野六角古墳は六角形の古墳で、7世紀中頃に築造されたと考えられています。麓に復原された塩野古墳は、直径7メートルの円墳と推定されています。

見野古墳群
市川下流域の麻生山の尾根東麓に築かれた7世紀代の群集墳です。6号墳はひとつの墳丘に2つの横穴式石室があり、10号墳は巨石を使用した横穴式石室があります。
奈良時代、平安時代
律令体制の整備に伴い播磨国が設置され、本町遺跡とその周辺に国府が置かれました。7世紀後半には辻井廃寺、下太田廃寺、市之郷廃寺、溝口廃寺などの寺院の建立が相次ぎ、8世紀中ごろに播磨国分寺や播磨国分尼寺が創建されました。康保3年(966年)に性空上人が書写山に入山すると、寛和2年(986年)に花山法皇が書写山円教寺の寺号を与えて西の比叡山と呼ばれるほど発展しました。平安時代後期の源氏と平家の軍事衝突から末法思想が隆盛し、極楽寺裏山の播磨極楽寺瓦経の埋納など経塚が盛んに作られました。

下太田廃寺塔跡
小河川-大津茂流域にある飛鳥時代に創建した寺院跡です。伽藍配置は南から塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ四天王寺式であることが判明しました。

溝口廃寺跡
飛鳥時代から450年ほど続いたと見られる寺院跡です。出土した複弁八葉蓮華文軒丸瓦は創建当初の製作とみられ、奈良県の興福寺と同一のものと考えられています。

播麿国分寺跡
天平13年(741年)の詔により国ごとに建てられた寺院のひとつです。南大門・中門・金堂・講堂などの伽藍配置があり、回廊や築地跡なども検出されています。

円教寺境内
康保3年(966年)に性空上人が開いた寺院で、平安時代から天皇家や公家・武家の信仰を集めました。現存する建物のほとんどは室町時代以降のもので風格があります。
鎌倉時代、南北朝時代
元弘3年(1333年)に赤松則村(円心)が護良親王の命により挙兵して京に兵を進める途中で姫路城の前身となる砦を築きました。赤松則村は建武の新政で冷遇されたため足利尊氏に属して活動し、その功績で播磨守護を与えられ、正平元年(1346年)に赤松貞範が姫路城を本格的な城に改修しました。
室町時代、安土桃山時代
嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で赤松満祐父子が六代将軍足利義教を謀殺する事件を起こし、細川・山名の幕府追討軍に追われて自害しました。姫路城は山名持豊が治めることになりますが、応仁元年(1467年)の応仁の乱で赤松政則が姫路城を陥落して領国を回復し、赤松一族の小寺氏や小寺氏重臣の黒田氏が姫路城を預かりました。天正8年(1580年)に羽柴秀吉が播磨国を平定すると、黒田孝高は姫路城を羽柴秀吉に献上して3層の天守閣が築かれました。羽柴秀吉はここを拠点に但馬や因幡を平定し、本能寺の変の中国大返しの起点となりました。姫路城は羽柴秀長が入り、天正13年(1585年)から木下家定が城主となりました。

赤松氏城跡(置塩城跡)
文明元年(1469年)に播磨守護職の赤松政則が築城したとされる播磨最大の山城で、主郭から礎石建物や庭園、築地土塁を持つ格式の高い屋敷跡が確認されています。
江戸時代
関ヶ原の戦いの戦功により姫路城を与えられた池田輝政は、姫路城の大改修を行い現在の姫路城の大半を築きました。元和3年(1617年)に移封された本多忠政は姫路城の改修や船場川の改修などを行い、これ以降は松平氏、榊原氏、酒井氏が姫路藩に入りました。寛延2年(1749年)に移封された酒井忠恭は藩校を移設し、天保13年(1842年)に酒井忠学が好古堂として大手門西側に移転拡張しました。
甲子の獄と戊辰の獄
天明の大飢饉で藩財政が悪化すると、家老の河合道臣(寸翁)が私塾・仁寿山饗の設立など藩政改革を行いました。嘉永6年(1853年)の黒船来航で姫路藩主・酒井忠績は佐幕派として展開しますが、河合道臣の養子屏山を筆頭とする勤王派の台頭で対立し、元治元年(1864年)に甲子の獄と呼ばれる勤王派の粛清が行われました。翌年に酒井忠績は幕府最後の大老となり、慶応3年(1867年)に藩主を継いだ酒井忠惇が老中上座に就任しましたが、翌年の鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に敗走しました。姫路藩は備前藩からの攻撃を受けて姫路城を無血開城し、莫大な軍費献金や藩政改革と引き換えに藩を引き継いだ酒井忠邦は戊辰の獄で佐幕派を一掃しました。

姫路城跡
慶長14年(1609年)に池田輝政が大改修して現在の姿になりました。平成5年(1993年)に世界遺産に登録されました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で姫路県から飾磨県に改められたのち、明治9年(1876年)に飾磨県は兵庫県に統合されました。明治22年(1889年)に全国30市とともに我が国初の市制を施行して姫路市が誕生し、姫路城周辺には陸軍第十師団が置かれて軍都としての性格も持ち合わせました。大正13年(1924年)に旧制姫路高校が開校したほか、臨海部に製鉄業などの重工業が進出して市街地が拡大していきました。アジア太平洋戦争の2度の空襲で壊滅的な打撃を受けましたが、高度経済成長期に播磨臨海工業地帯の中心的な役割を担う発展を遂げました。

好古園
平成4年(1992年)に姫路市制百年を記念して開園した約1万坪の池泉回遊式庭園です。京都大学教授中村一氏が設計し、姫路藩校・好古堂に因んで名付けられました。
