ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

宮津市

京都府宮津市の天橋立ビューランド

宮津市は京都府の北西部にあります。市域の8割を山地が占め、若狭湾に面する海岸線は砂浜やリアス海岸の岩礁など多彩な海岸地形がみられます。日本海沿岸の交易の拠点として古くから栄え、丹後地方の中心都市として発展してきました。日本三景のひとつ天橋立があり、観光都市として栄えています。

概要

面積
172.74km2
人口
16,347人(2021年11月1日)
市の木
くろまつ
市の花
みつばつつじ
地図

歴史

江戸時代に京極氏が再建した宮津城下町は、由良川水運の拠点から北前船の寄港地として栄え、現在の町並みの基礎となりました。日本三景のひとつ天橋立は日本神話の舞台であり、平安時代には和歌の歌枕である名所として貴族の憧れの地となりました。明治時代に交通網が整備されると観光客が押し掛けるようになり、地場産業のイワシの加工品が土産として好まれています。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

縄文時代から人の営みが残されており、中野遺跡や国分遺跡から縄文時代早期の土器が出土し、日置高畦遺跡から弥生時代前期の土器が出土しています。弥生時代中期に天橋立が形成されると遺跡が増加し、日置塚谷遺跡の銅剣形石剣や宮村遺跡の土器などが出土し、弥生時代後期には桑原口遺跡で集落跡が見つかりました。

天橋立と日本神話

弥生時代に縄文海進が後退して天橋立が形成していきました。丹後国風土記によると、伊弉諾尊が天界と下界を結ぶために建てた梯子が寝ている間に海上に倒れ、一本の細長い陸地を形成したものとされます。

古墳時代、飛鳥時代

古墳時代前期から野田川の河口を望むように古墳が展開し、古墳時代後期の霧ヶ鼻古墳群や倉梯山1号墳、小田古墳で横穴式石室が確認されています。荒木野遺跡や杉本遺跡では銅銭や祭祀用の斎串などが出土し、難波野遺跡では天橋立の方向を意識して土器をコ字形に並べた祭祀遺構が見つかりました。

奈良時代、平安時代

仏教の伝来で日本三大文殊のひとつに数えられる智恩院など寺院が建てられ、丹後国分寺跡の背後にある成相寺は僧侶の山林修行の場とされました。平安時代に和歌の歌枕である名所として貴族の憧れの地となり、貴族の邸宅には天橋立をモデルとした庭園が造られて歌会の舞台となりました。天橋立は江戸時代に日本三景の一つに選定されています。

京都府宮津市の成相寺旧境内

成相寺旧境内

慶雲元年(704年)に文武天皇の勅願所として真応上人が創建したと伝えられており、平安時代には山岳霊場として全国に知られていたと言われます。

京都府宮津市の丹後国分寺跡

丹後国分寺跡

勅命により全国各地に建てられた国分寺のひとつです。現在の遺跡は南北朝時代に再建されたもので、創建期の主要伽藍遺構、範囲、建立時期などは未詳なものが多いです。

京都府宮津市の天橋立

天橋立

宮島や松島とともに日本三景に数えられる名勝です。

鎌倉時代、南北朝時代

鎌倉時代から南北朝時代に御家人の日置氏が勢力を伸ばし、南北朝の戦乱では日置末清が足利尊氏の軍勢に参加した記録が残されています。

室町時代、安土桃山時代

明徳3年(1392年)に一色満範が丹後国守護に任命され、一色義直が在国すると丹後府中の都市整備が進められました。一色氏は若狭武田氏と対立し、永正3年(1506年)に若狭武田氏が丹後国に侵攻して丹後府中は戦火に遭いました。織田信長が勢力を拡大して丹後国を支配下に置いて明智光秀の所領となりますが、本能寺の変を経て明智光秀が山崎の戦いに敗退すると、天正8年(1580年)に細川藤孝・忠興が丹後国に入部して宮津城を築城しました。盛林寺には明智光秀の首塚とされる宝篋印塔や夭折した細川藤孝の男児を描いた即安梅心童子像が残されています。

江戸時代

宮津藩2代藩主・京極高広は、宮津城を改築して現在の町並みの基盤となる城下町を再建しました。新たに整備された普甲峠を越える街道は宮津藩の参勤交代や天橋立へ向かう旅行者が利用し、石畳の道路や関所跡が設けられたほか旅籠や茶屋が営まれました。由良川水運の拠点として発展した町は、江戸時代後期から明治時代には北前船の寄港地として栄えました。江戸時代後期に砂州が急速に伸張して阿蘇海が閉鎖性していくと、イワシの不漁が問題とりました。阿蘇海の漁民は橋立裁断の願い出を提出しましたが、天橋立を管理する智恩寺の住持はこの申し出を退けて天橋立の景観は保全されました。

京都府宮津市の江西寺庭園

江西寺庭園

江西寺の創建の経緯や年代は不明ですが、慶安3年(1650年)に天橋立を見下ろす現在地に移転されました。本堂背後の枯山水庭園は京都府の名勝に指定されています。

京都府宮津市の妙円寺庭園

妙円寺庭園

江戸時代後期に妙円寺第十九世・日妙上人が作庭したと伝えられる池泉観賞式庭園です。近江八景を模したものとされ、正面に築山を築いて下部に池泉を配置しています。

京都府宮津市の三上家庭園

三上家庭園

宮津城下有数の豪商・三上家の邸宅にある座観式庭園です。宮津藩御用庭師の江戸金が作庭したとされ、幕府巡見使や西園寺公望、有栖川宮熾仁親王などが鑑賞しました。

明治時代、大正時代、昭和時代

四軒茶屋の経営者が旅館の建設に乗り出し、明治21年(1888年)には鶴賀-宮津間航路が開かれました。明治時代末期に文珠海岸は木造 3 階建ての旅館が建ち並ぶ景観へと変貌し、海水浴客の増加にくわえ大正時代に潮湯が開業するなど近代観光地として発展しました。大正13年(1924年)に氷見からイワシの定置網が導入され、海産物を加工した竹輪、蒲鉾などの練製品や鰮油漬(オイルサーディン)が盛んに製造されて天橋立の土産として喜ばれました。

戦争から現在

アジア太平洋戦争で舞鶴軍港の航空隊が新設されたことで、第31海軍航空廠や宿舎、倉庫、製塩所などの施設が建設されました。戦後に帝国海軍が解体されてその跡地には京都府立海洋高等学校や京都府立海洋センターが建てられ、昭和29年(1953年)に宮津市が誕生しました。

京都府宮津市の小天橋(回旋橋)

小天橋(回旋橋)

大正12年(1923年)に架橋された回旋橋です。この架橋で文珠地区と天橋立を結ぶ渡舟は廃止されましたが、橋が回転する姿は天橋立観光の新しい名物となりました。

京都府宮津市の由良川鉄橋

由良川鉄橋

大正13年(1924年)に由良鉄橋が架橋されて丹後鉄道が開通し、大正14年(1925年)には鉄道が延伸して天橋立駅が設置されて天橋立の観光客が増加しました。