大野郡

大野郡は岐阜県北西部に位置する白川村のみで構成されています。95%以上を山林が占め、急斜面地の間を縫うように流れる庄川の流域に集落が形成しています。気候は日本海斜面に位置する飛騨寒地多雨型で日本有数の豪雪地帯となります。平成7年(1995年)に白川郷・五箇山の合掌造り集落がユネスコ世界遺産に登録されました。
概要
- 面積
- 356.64km2
- 人口
- 1,479人(2021年10月1日)
- 含む町村
- 白川村
- 地図
歴史
縄文時代早期から人の営みがある地域です。当地を治めていた内ヶ島氏は帰雲城を居城としていましたが、天正13年(1585年)の天正大地震による大規模な山崩れで城下町ごと埋没し一族は全滅しました。江戸時代には養蚕が盛んに行われるようになり、大きな合掌建物が建設されていきました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
縄文時代早期に椿原ヤツノ地区で狩猟採集した人びとの痕跡が残されています。やがて御母衣上洞地区や島地区に移り住み、弥生時代には水田を耕作して各地に集落を形成していきました。

白水滝
およそ2200年前の白山噴火で噴出した溶岩流で形成した平坦地から流れ落ちる直瀑で、落差は67メートルあります。流れ落ちた水が乳白色のため、白水滝と呼ばれています。
古墳時代、飛鳥時代
特に記録は見つけられませんでした。
奈良時代、平安時代
8世紀に白山を信仰の対象とする山岳信仰の修験の行場として白川郷と五箇山地方が開かれました。寿永2年(1183年)に倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に平家が敗れると、平家の落ち武者が住み着いた伝説が残されています。
鎌倉時代、南北朝時代
建長5年(1253年)に親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊が庄川沿いに浄土真宗を布教し、白川郷の鳩ヶ谷に道場を構えたことで農民たちの間に浄土真宗が広まりました。
室町時代、安土桃山時代
寛政元年(1460年)に足利義政の命を受けた内ヶ島為氏が白川一帯に進出しました。内ヶ島氏は庄川流域で金鉱山を経営し、農業に向かない乏しい土地ながら大きな勢力を誇りました。越前や加賀、越中で真宗門徒が武家勢力を追い払うと、白川郷にも一向衆の勢力が流れ込んできました。文明7年(1475年)に一向衆と内ヶ島氏が武力衝突し、翌年に内ヶ島為氏が正蓮寺を焼き討ちにしました。この対立は本願寺蓮如の仲裁で和解し、文亀元年(1501年)に内ヶ島為氏は正蓮寺を再興しました。
豊臣秀吉の勢力下
天正10年(1582年)に本能寺の変で織田信長が討たれると、内ヶ島氏理は三木自綱とともに越中領主・佐々成政と組んで羽柴秀吉に反旗を翻しました。天正13年(1585年)に羽柴秀吉配下の金森長近が照蓮寺と手を結んで白川郷を攻撃し、越中に出陣中の内ヶ島氏は降伏しました。金森長近は照蓮寺に対して高山の広大な寺域を与え、白川郷では阿弥陀仏以外の信仰を排斥するようになりました。天台系密教僧侶・円空上人は白山信仰の修行のために白川郷を訪れましたが、庄川流域へ入ることは許されませんでした。

帰雲城跡
寛正5年(1464年)に内ヶ島為氏が築城しました。天正13年(1585年)の巨大地震で帰雲山が大崩落を起こし、内ヶ島氏理らが崩落に巻き込まれて内ヶ島氏は滅亡しました。
江戸時代
元禄5年(1692年)に金森氏の統治から幕府の直轄領となり、高山陣屋の支配下に置かれました。江戸時代中期になると白川郷は現金収入を得るため養蚕業が盛んになり、北陸系の寄棟茅葺屋根の家屋は養蚕スペースを設けるために民家が大型化して合掌造り民家に建替えられていきました。

白川郷・五箇山の合掌造り集落
茅葺屋根は15~20年で葺き替える必要があり、葺き替えには数百人が必要でした。村人たちは結と呼ばれる相互扶助を行う組織を結成し、村中が協力して屋根を葺き替えました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治8年(1875年)に白川郷のうち尾野から北の23箇村を合わせて白川村が誕生しました。昭和20年代から庄川流域の電源開発によるダム建設が始まり、集落が水没するなどして合掌建物が減少していきました。
合掌建物の保存運動
小集落の集団離村や火災による焼失により、大正13年(1924年)に300棟あった合掌建物は、昭和36年(1961年)には190棟に激減しました。荻町集落の地域住民たちは合掌建物の消滅に危機感を抱き、昭和46年(1971年)から地域内の資源を売らない・貸さない・壊さないの3原則を掲げ保存活動を始めました。これらの保存活動が認められ、昭和51年(1976年)に国の重要伝統的建造物保存地区に選定され、平成7年(1995年)には世界遺産に登録されました。
