下呂市

下呂市は岐阜県の中央東部で飛騨地方の南部にあり、霊峰御嶽山をはじめとする急峻な山に囲まれています。気候は山間内陸性気候に属して年間降水量は比較的多めで、市域の9割を山林が占め、中央を南北に飛騨川が流れています。温泉資源に恵まれる地域で、日本三名泉のひとつ下呂温泉は日本有数の温泉街を形成しています。
概要
- 面積
- 851.21km2
- 人口
- 29,806人(2021年11月1日)
- 市の木
- もみじ
- 市の花
- 岩つつじ(さつき)
- 地図
歴史
湯ヶ峰で採れる下呂石はガラス質で加工しやすく、石器づくりに重宝して全国に流通しました。室町時代に三木氏から金森氏へと統治が代わり、江戸時代には幕府直轄領となりました。平安時代から広く知られた下呂温泉は、儒学者・林羅山が草津・有馬と並ぶ天下の三名泉と称えました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
湯ヶ峰は石器の素材として有名な下呂石が産出することで知られ、旧石器時代から石器の素材として使用されてきました。旧石器時代の遺跡としては大林遺跡や初矢遺跡があり、縄文時代の遺跡として下島遺跡、杉ヶ平遺跡、森ノ外遺跡などがあります。弥生時代の遺跡は飛騨川流域と宮川流域に集中しており、萩原町上呂では2個の銅鐸が発見されています。

横谷峡四つの滝
馬瀬川の支流である横谷川にある白滝、二見滝、紅葉滝、鶏鳴滝の4つの滝です。 平成18年(2006年)に黄金姫街道と呼ばれる遊歩道が新設されています。

岩屋岩蔭遺跡
馬瀬川左岸の南側山麓に位置している巨石で構成される遺跡です。縄文時代早期から使用されており、弥生時代には儀式的な場として利用されたと考えられています。
古墳時代、飛鳥時代
弥生時代から継続して集落が形成しましたが、盛土で古墳が造られた記録は見当たりませんでした。
奈良時代、平安時代
律令期に東山道飛騨支路として高山との間に飛騨街道が整備され、上留駅、下留駅、菅田駅が置かれました。
鎌倉時代、南北朝時代
文永2年(1265年)の地震により下呂温泉の湧出が突然止まりました。翌年、毎日益田川の河原に舞い降りる一羽の白鷺がいることに村人が気づき、けがをした白鷺が傷を癒していたところで新たな源泉が見つかりました。

鳳慈尾山大威徳寺跡
源頼朝の願旨により文覚上人が諸国を行脚した際、舞台峠付近で大龍と化した大威徳明王が現れました。文覚上人は源頼朝にその威徳を告げて一大城郭寺院が創建されました。
室町時代、安土桃山時代
応永18年(1411年)に京極氏が応永飛騨の乱で姉小路氏を討伐し、その功により竹原郷が与えられ、京極氏の代官として三木正頼が着任して宮地城を築城しました。天正6年(1578年)に織田信長が家臣を連れて下呂温泉に湯治に訪れました。三木直頼が築城した桜洞城は、天正7年(1579年)に松倉城に移るまで三木氏の居城となりました。三木自綱の子・三木信綱が桜洞城の城主となりましたが、間もなく謀反の疑いで松倉城で誅殺されました。天正13年(1585年)に羽柴秀吉の家臣・金森長近が侵攻し、桜洞城などが陥落して三木氏は滅亡しました。金森長近は道路整備を行うとともに各地に口留番所を設置しました。

諏訪城跡
飛騨川の左岸に築かれた平城で、天正14年(1586年)に金森長近の飛騨入国に伴い諏訪神社を遷して城が築かれ、婿の佐藤六左右衛門秀方を城代としました。
江戸時代
三木氏を追討した金森長近は、天正16年(1588年)に高山城を築城して飛騨を支配しました。元禄5年(1692年)に金森氏は幕府から出羽国に国替えを命じられ、飛騨は幕府直轄領となりました。飛騨から多くの木材が供出され、桑名や名古屋方面に木材を流して江戸や大阪に船で送られました。飛騨街道と中山道の分岐に湯之島宿が置かれ、下呂温泉には多くの湯治者が訪れました。文政8年(1825年)の洪水で湯之島宿と下呂温泉の源泉が壊滅し、天保3年(1832年)まで復旧工事が進められましたが、天保7年(1836年)と翌年の洪水で源泉が再び水没しました。

禅昌寺庭園
平安時代の創設と言われる禅昌寺にある庭園で、金森宗和が設計したと言われています。金森宗和は京都で千利休の長子・道安の高弟として茶道に精進し、宗和流茶道の祖となりました。

初矢峠の石畳
東美濃と飛騨を結ぶ南北街道の一部に残る石畳です。御厩野に番所があることから、自然の悪条件を改良して通行を容易にするため整備された石畳と考えられています。

飛州下原中綱場
この岩に大きな藤綱を結びつけて、飛騨南方山中から伐り出された御用木を綱で止め、御番所に詰めていた木材改役人が木材改めを行いました。

藩領境標石
自然石に従是南尾張領と刻まれた藩境を明示した標石です。延宝年間(1673年)に金山村と東沓部村との境界の争いがあり、代官の江坂清左衛門が標石を立てました。

武川久兵衛の墓
武川久兵衛は江戸時代中期に4代にわたり北海道開拓に携わり巨額の財を成した商人家で、3代武川倍良は温泉寺の建立にあたり、持ち山を寺地・境内として寄進しています。
明治時代、大正時代、昭和時代
慶応4年(1868年)に飛騨郡代の新見内膳が江戸へ逃げて竹沢寛三郎が高山陣屋へ入り、梅村速水と交替して飛騨県を経て高山県と改称されました。梅村は新しい政治改革を行いますが飛騨の反発を招いて梅村騒動となりました。明治4年(1871年)に筑摩県に属したあと、明治9年(1876年)に筑摩県から岐阜県に編入されました。この年に下呂温泉の新しい源泉が発見され、下呂温泉が再び活気を取り戻していきます。昭和5年(1930年)に高山本線が開通して全国から観光客が訪れる近代的な温泉リゾートへと変貌し、平成16年(2004年)に旧益田郡5町村が合併して下呂市が誕生しました。

下呂温泉合掌村
昭和38年(1963年)に白川郷などから旧大戸家住宅などの建物を移築して飛騨郷土館として開館し、昭和44年(1969年)に下呂温泉合掌村に改称しました。
