ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

高山市

岐阜県高山市の市街地

高山市は岐阜県の北部に位置し、日本一広大な面積を誇り9割が森林を占めます。北東部に穂高連峰などの飛騨山脈を擁して高原川や宮川が分水嶺から北へ神通川水系になり、南東部には御岳を擁して飛騨川が北から南へ木曽川水系となり、南西部では庄川が南から北へ庄川水系にそれぞれ流れます。飛騨の小京都と呼ばれ、日本三大朝市の宮川朝市が毎朝開催されます。

概要

面積
2,177.61km2
人口
83,276人(2021年10月1日)
市の木
いちい
市の花
こばのみつばつつじ
地図

歴史

古くから人が生活した地域で、縄文時代の遺跡が多く残されています。怪物宿儺が大和王権に反旗を翻して鎮圧され、以降朝廷の支配下に置かれました。大きく発展するのは戦国時代末期で、金森長近が飛騨を平定して飛騨の小京都と呼ばれる美しい城下町を形成しました。森林資源や鉱山資源に目をつけた幕府は金森氏を移封させて飛騨を幕府直轄地として更に発展していきました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

飛騨には縄文時代の遺跡が非常に多く有舌尖頭器や押型文土器が発見されています。糠塚遺跡から浅鉢形土器が発掘され、垣内遺跡からは75基の住居址と環状列石が発掘されています。弥生時代には江名子ひじ山遺跡や赤保木遺跡が知られています。

岐阜県高山市の宇津江四十八滝

宇津江四十八滝

猪臥山付近の山腹から発する滝上川が奇岸珍石の間を流れ、大小無数の滝を作りだしました。昭和11年(1936年)に岐阜県天然記念物に指定されています。

岐阜県高山市の縄文式住居跡

縄文式住居跡

宮川左岸の低い洪積世河岸段丘上の村山天満神社の境内地にあります。竪穴住居跡からは6個の主柱穴が配置され、縄文時代前期の土器などが大量に発掘されました。

岐阜県高山市の赤保木石器時代火炉

赤保木石器時代火炉

見量山山麓にひろがる小扇状地に立地する遺跡で、縄文時代から古墳時代にかけて形成した集落跡です。縄文時代中期の土器や2基の珍しい炉跡が発見されました。

岐阜県高山市の堂之上遺跡

堂之上遺跡

飛騨川の上流の小舌状台地に形成した集落跡で、縄文時代前期から中期に43軒の住居が建てられ、縄文時代中期に環状集落となり、台地中央部に土壙墓が形成しました。

岐阜県高山市の荒城神社遺跡

荒城神社遺跡

宮川支流荒城川右岸の河岸段丘上に形成した集落跡で、縄文時代中期中頃から後期後半の土器が出土しています。呪術的な性格を有する石冠などが出土しました。

古墳時代、飛鳥時代

両面四手四足の怪物宿儺が朝廷に反旗を翻し、難波根子武振熊が両面宿儺の反乱を鎮圧しました。5世紀に築かれた冬頭王塚古墳は飛騨で最も古い古墳とされ、赤保木古墳群の5号古墳も同じ頃の築造と考えられています。古墳時代後期には小丸山古墳、岩屋古墳、寺尾古墳群などが築造され、古墳時代終末期の桧山古墳から50体近い人骨が発見されました。横穴で現存するのは杉ケ洞横穴のみで、これらの横穴の被葬者は朝廷が送り込んだ氏族集団の墓と推定されています。

岐阜県高山市の赤保木古墳群

赤保木古墳群

川上川左岸の河岸段丘上に造営された5世紀の群集墳で、現在は5基のみ存在しています。5号墳は竪穴式石室で箱型石棺が見つかり、6号墳からは環頭太刀などが出土しています。

岐阜県高山市のこう峠口古墳

こう峠口古墳

宮川右岸の段丘上に位置する6世紀後半の前方後円墳で、飛騨地方では最大の古墳です。横穴式石室は全長15メートルあり、埋葬する玄室は岐阜県で最も大きいです。

奈良時代、平安時代

白鳳時代に三仏寺廃寺や東光寺跡などが建立し、奈良時代には高山に国府が置かれて国分寺や国分尼寺が創建しました。朱鳥元年(686年)に大津皇子の謀反に加担した新羅僧の行心が学識を惜しまれて飛騨の伽藍へ流されたとされます。平安時代には平時輔朝臣が飛騨守として三仏寺城に在城して平家の領国となりましたが、治承5年(1181年)に木曽義仲の軍に攻められ、三仏寺城は落城しました。

岐阜県高山市の飛騨国分寺塔跡

飛騨国分寺塔跡

天平13年(741年)の国分寺建立の詔により、天平勝宝9年(757年)頃までには完成しました。現在の国分寺三重塔は、文政4年(1821年)に再建されたものです。

岐阜県高山市の赤保木瓦窯跡

赤保木瓦窯跡

見測山丘陵の東南麓傾斜面に造営された奈良時代後期から平安時代にかけての窯跡群です。4基の半地下式有階登窯と2基の半地下式登窯が検出されました。

岐阜県高山市のよしま古窯跡

よしま古窯跡

見量山山頂に通じる見量道の北側に造営された半地下式の登窯です。平安時代後期の灰釉陶窯跡で、飛騨で初めて発見されたことで注目されています。

岐阜県高山市の三佛寺城跡

三佛寺城跡

平時輔が飛騨守として在城しました。治承5年(1181年)に木曽義仲の軍に攻められて落城し、平景家の室阿紀伊の方と平景綱の息女鶴の前は行方知れずとなりました。

鎌倉時代、南北朝時代

政治の中心地が広瀬郷や荒城郷へ移りました。源頼朝や北条氏に仕えた一流の舞楽演奏家である多好方・好節父子が飛騨の地頭に補任され、飛騨各地の祭礼に舞われる闘鶏楽、鶏毛打が教え伝わりました。

室町時代、安土桃山時代

京極氏が飛騨国守護として南飛騨を支配しましたが、南朝方が飛騨国司とした姉小路家綱が北飛騨に勢力を誇りました。応永18年(1411年)に4代将軍足利義持の命を受けた京極高光・京極高数らが姉小路尹綱を討ち取る応永の乱が起こり、姉小路は小島城の小島家を嫡流として向小島城の小鷹利家と古河城の古河家の三家に分裂し、飛騨の最南端には京極氏の被官・三木氏が置かれました。こうして飛騨は江馬氏、姉小路三家、京極氏が支配するようになりました。

三木氏の飛騨統一

飛騨では文明飛騨の乱により姉小路氏と京極氏が一進一退の戦い繰り広げました。京極氏の多賀氏や高山外記などが守護代として勢力を伸ばし、広瀬郷の広瀬氏、白川郷の内ケ嶋氏、中山の岡本豊前守、三枝郷の山田紀伊守、江名子の畑六郎左衛門、大八賀郷の鍋山豊後守などが割拠しました。姉小路氏と京極氏が衰退して新たに桜洞城の三木自綱が台頭すると、永禄元年(1558年)に三木自綱は広瀬氏と結んで高山外記や山田紀伊守を滅ぼし、天正10年(1582年)に三木氏は八日町の戦いで江馬輝盛を滅ぼして飛騨を制覇しました。三木は絶家の姉小路姓を名乗り、松倉城を築城しました。

三木氏の滅亡と金森氏の支配

天正13年(1585年)に羽柴秀吉は越中攻めを行うとともに、金森長近に三木氏攻略を命じました。金森可重は南から桜洞城と鍋山城を攻め、金森長近は牧戸、小鷹利、小島の各城から松倉城を攻め落として飛騨を平定しました。飛騨平定後、先導役を務めた在地武将の反乱や一揆が1年にわたり続きました。金森長近は関ケ原の戦で東軍について前線で戦い、美濃国上有知と河内国金田を加増されました。

岐阜県高山市の鍋山城跡

鍋山城跡

天文年間(1532~55年)に豊後守安室が創築したと考えられています。安室は大八賀郷を領有していた小領主で、三木自綱が山田氏や高山外記を滅ぼすと三木氏に下りました。

岐阜県高山市の高堂城跡

高堂城跡

広瀬左近将監利治が築城した広瀬城の詰城で、三木自綱が攻め落として三木氏の居城となりましたが、羽柴秀吉配下の金森長近の攻撃を受けて落城しました。

岐阜県高山市の広瀬城跡附田中筑前守墓碑

広瀬城跡附田中筑前守墓碑

天正11年(1583年)に三木自綱は広瀬宗域を謀殺して広瀬城を奪いました。天正13年(1585年)に三木自綱は広瀬城で金森長近と戦いますが、敗れて京都に出奔しました。

岐阜県高山市の松倉城跡

松倉城跡

飛騨地方南部を支配した三木氏が高山盆地へ進出した際の拠点であり、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の命を受けた金森長近の侵攻により落城したと伝えられています。

江戸時代

慶長5年(1600年)に金森長近は、天神山古城と城下町を築いて鍋山城から移りました。農民一揆の対策として門徒の多い照蓮寺を高山城の向かいに配置し、宗和流茶道の導入や寺社の再興など文化を興し、商業振興や鉱山資源の開発、山林資源開発などを行いました。元禄5年(1692年)に金森氏が出羽国上ノ山に転封になると飛騨は幕府直轄地となり、代官として関東郡代・伊奈半十郎忠篤が兼任、金沢藩主前田綱紀が高山城在番を命ぜられました。

幕府の直轄領

元禄8年(1695年)に金沢藩が幕命により高山城を破却しました。明和8年(1771年)に明和騒動と呼ばれる農民一揆が起こり、安永2年(1773年) に幕府は飛騨の再検地を行うことを決めたことで農民たちは反発して安永騒動となり、寛政元年(1789年)まで天明騒動と呼ばれる農民一揆が続きました。大原彦四郎代官の検地により石高を増やした飛騨は郡代に昇格しましたが、天明騒動では大原亀五郎郡代の政治不正が問われて、郡代は八丈島へ流罪となりました。

岐阜県高山市の高山陣屋跡

高山陣屋跡

元禄5年(1692年)に金森氏が出羽国に国替えとなりました。幕府は飛騨を直轄領として役所を設置して、幕府から派遣された代官が飛騨支配のための執務を行いました。

岐阜県高山市の成田正利の墓

成田正利の墓

京都の塗師・成田義賢は金森長近の御用塗師として、春慶塗と呼ばれる技法を生み出しました。その子・成田正利は春慶塗の改良に貢献し、元禄5年(1692年)に没しました。

岐阜県高山市の赤田臥牛墓

赤田臥牛墓

漢学者として大成した赤田臥牛は飛騨高山に静修館を経営し、子の赤田章斉と孫の赤田誠軒の三代にわたり郷党の師弟を訓育し、文政5年(1822年)に病没しました。

岐阜県高山市の加藤歩簫墓

加藤歩簫墓

加藤歩簫は俳諧を泊庵蝶夢に学び、国学を伴蒿蹊に学びました。安永元年(1772年)に家督を相続して父の私塾を継承して営み、文政10年(1827年)に没しました。

岐阜県高山市の田中大秀墓

田中大秀墓

田中大秀は粟田知周や伴蒿蹊、本居宣長らに師事しました。文化15年(1818年)に荏名神社の傍らに隠棲し、荏野翁と称して国学の研究と門弟の指導に専念しました。

岐阜県高山市の荏野文庫土蔵

荏野文庫土蔵

荏名神社の境内にある国学者田中大秀の文庫蔵で、弘化2年(1845年)に火災と鼠害に備えて池の中に建てられました。黄色い壁土は京都の吉田神社がある神楽岡から運ばれました。

明治時代、大正時代、昭和時代

慶応4年(1868年)に飛騨郡代の新見内膳が江戸へ逃げて竹沢寛三郎が高山陣屋へ入り、梅村速水と交替して飛騨県を経て高山県と改称されました。梅村は新しい政治改革を行いますが飛騨の反発を招いて梅村騒動となりました。明治4年(1871年)の廃藩置県で筑摩県となり、明治9年(1876年)に岐阜県に合併されました。高山は開産社、永昌社、三星製糸などの製糸業が最盛期を迎えていきます。大正9年(1920年)に岐阜-各務原間が開通し、昭和11年(1936年)に高山町と大名田町が合併して高山市が誕生しました。昭和20年(1945年)には米軍が爆撃予告ビラを撒きましたが終戦を迎えて爆撃を免れています。

岐阜県高山市の旧高山町役場

旧高山町役場

飛騨の名工坂下甚吉と舟坂直蔵が手掛けた建物で、明治28年(1895年)から町役場として使用され、昭和61年(1986年)から高山市政記念館になりました。

岐阜県高山市の宮川朝市

宮川朝市

江戸時代から続く日本三大朝市の一つです。宮川沿いの通りに地元農家の野菜や果物、伝統工芸品のさるぽぽ、魅力的な食べ歩きグルメの屋台がずらりと並びます。

岐阜県高山市の飛騨の里

飛騨の里

昭和46年(1971年)に開館した飛騨地方の古い民家を移築復元した屋外博物館です。約13万平方メートルの広大な敷地に国の重要文化財4棟を含む建物が並びます。

岐阜県高山市の乗鞍スカイライン

乗鞍スカイライン

昭和23年(1948年)に県道乗鞍公園線を利用した乗鞍登山バスの試運転が開始し、昭和48年(1973年)に乗鞍スカイラインが開通して入込数が飛躍的に伸びました。