下水内郡

下水内郡は長野県の最北端に位置し、栄村のみで構成されます。積雪量日本一を記録したこともある日本有数の豪雪地です。村の北部を流れる千曲川沿いの野々海高原や温泉施設にはアウトドアを楽しむ人たちが訪れます。南部には苗場山、鳥甲山、佐武流山が聳え登山愛好家が訪れます。
概要
- 面積
- 271.66km2
- 人口
- 1,551人(2022年10月1日)
- 含む町村
- 栄村
- 地図
歴史
千曲川や志久見川沿いの遺跡から火焔型土器が出土し、火焔型土器文化の南限となりました。雪深い秋山郷は平家落人伝説が残り、中世には市河氏が勢力を誇りました。昭和時代には積雪7.85メートルを記録し、日本の鉄道最高地点の積雪記録を樹立しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
村木遺跡や横倉遺跡でナイフ形石器などが見つかり、旧石器時代から人の営みがありました。縄文時代早期には仙当遺跡や村木遺跡などの遺跡ができ、縄文時代中期の長瀬新田遺跡から火焔型土器が出土しています。縄文時代後期から遺跡は減少しますが、弥生時代中期から後期には小泉遺跡群で集落が形成されています。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代前期の柳町遺跡や上野遺跡、中期から後期に有尾遺跡、田草川尻遺跡などで集落が形成し、勘介山古墳や法伝寺2号墳などの古墳が形成しました。
奈良時代、平安時代
深い山に囲まれる地形のため平家落人伝説が残されており、源頼朝に敗れた平勝秀は草津より逃れて秋山郷に潜んだとされています。
鎌倉時代、南北朝時代
中野氏は所領を安堵されて地頭に任ぜられ、鎌倉中期頃まで支配しました。文永11年(1274年)に中野氏から志久見郷を手に入れた市河氏は、内池館跡を居館として鎌倉時代から安土桃山時代まで統治しました。鎌倉時代末期に市河氏は新田義貞に味方して鎌倉幕府を討伐しました。
室町時代、安土桃山時代
南北朝時代に領主化を進めた市河氏は、室町時代に下水内郡に勢力を伸ばし、仙当城などを築いて支配を強化しました。市河房幸は武田氏に仕えたあと、武田氏滅亡後に上杉氏に仕えて、会津・米沢に移住しました。
江戸時代
江戸時代初めに飯山藩領でしたが、享保2年(1717年)から幕府領となりました。天明3年(1783年)に発生した浅間山の噴火では、火山噴出物が陽光を遮り冷害を悪化させて農作物に壊滅的な被害を与えました。天明の大飢饉と呼ばれたこの天災で、大赤沢村では173人が亡くなり22軒のうち9軒が死に絶え、大秋山村と矢櫃村は滅んでしまいました。
秋山郷と佐藤佐平治
泊村の庄屋・福原新左衛門は、天保の大飢饉の被害の状況を詳細に調べ、飢えに苦しむ村人を救うために新潟県小千谷市で造り酒屋・伊丹屋を営む佐藤佐平治に相談しました。佐藤佐平治は福原新左衛門の訴えを快く引き受け、秋山郷の村人は雪が降る道を裸足で70キロ歩いて佐藤佐平治の屋敷で一人一俵の食料をもらいました。この最中、運搬や配分を担当した福原新左衛門は過労で倒れ、その娘も介護に疲れて亡くなります。佐藤佐平治は50両もの大金を秋山郷に寄付しますが、使い道に悩んだ秋山郷の村人からの相談により、佐藤佐平治はそのお金を借りた形にしてその利息を秋山郷に還元することにしました。この制度は135年にも及ぶ、昭和42年(1967年)まで続けられました。秋山郷の村人は佐藤佐平治と福原新左衛門に感謝して家に二人の戒名が書かれた掛け軸を掲げ、毎年佐平治祭りを開いて感謝を続けています。

福原総本家旧宅
江戸時代末期に建てられた茅葺き中門造の民家で、日本有数の豪雪地帯である秋山郷の典型的な家屋です。茅葺屋根は合掌造りの流れをくむ中門造りという特徴的な様式です。
明治時代、大正時代、昭和時代
厳しい豪雪地帯のため、雪崩被害や食料確保に苦労しました。ソバ、アワ、ヒエなどの雑穀栽培や熊狩りなどの狩猟が盛んに行われ、稲作が難しい傾斜地などでは桑の木が植えられて蚕を飼う家庭が多くありました。昭和20年(1945年)には観測史上最高の7.85メートルを記録し、昭和38年(1963年)に豪雪地帯に指定されました。

旧鳥甲牧場跡
昭和50年(1975年)に標高千メートルほどの高原に開園した村営牧場です。20ヘクタールの敷地に食用牛と乳牛の両方を400頭近く放牧して育てていました。
