ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

南魚沼郡

新潟県南魚沼郡の湯沢高原パノラマステーション

南魚沼郡は新潟県南部に位置する湯沢町のみで構成されます。旧三国街道の宿場町である湯沢町は近代にスキーと温泉の町として栄えました。日本百名山の苗場山や谷川岳がある自然豊かな地域でもあり、冬季は豪雪地帯で川端康成の小説雪国の冒頭に描かれています。

概要

面積
357.29km2
人口
7,739人(2023年1月1日)
含む町村
湯沢町
地図

歴史

越後国と関東を結ぶ交通の要衝で、戦国時代は軍事的な拠点、江戸時代は宿場町として発展しました。戦後の高度経済成長により上越新幹線が開業し、バブル期に温泉と豪雪地帯を活かした開発が進められ、東洋一のスキーリゾートへと変化を遂げました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代から人の営みがあり、縄文時代には縄文銀座と呼ばれるほど多くの縄文集落が形成され、多くの火焔型土器が作られました。縄文時代中期から後期にかけて川久保遺跡に集落が形成しましたが、水耕稲作が難しい積雪の厳しい地域のため、弥生時代の遺跡は極端に少なくなります。

新潟県十日町市の清津峡

清津峡

黒部峡谷(富山県)、大杉谷(三重県)とともに日本三大峡谷のひとつで、清津川の中流域に位置する柱状節理を形成する石英閃緑ひん岩と緑色凝灰岩が激流に磨かれた渓谷です。

古墳時代、飛鳥時代

古墳と断定できる盛り土や埋葬施設は見つかりません。

奈良時代、平安時代

大宝律令により越後国魚沼郡に属しましたが、定住集落は明確に確認されていません。伝説では、およそ900年前の平安時代に高半旅館の祖である高橋半六が湯沢温泉を発見したとされます。

鎌倉時代、南北朝時代

平安時代末期から鎌倉時代にかけて上田荘が成立し、地頭として上田氏が統治するようになりました。南北朝時代に関東管領の被官として上田長尾家が支配するようになりました。

室町時代、安土桃山時代

永正6年(1509年)に関東管領・上杉顕定と越後守護代の長尾為景が対立しました。上田長尾家当主の長尾房長は上杉顕定につきましたが、長尾為景の反攻で形成が悪くなると長尾為景方に寝返りました。上田長尾家は長尾為景ら府内長尾家と和解と対立を繰り返しながら独自性を保ちました。

御館の乱

天正6年(1578年)に上杉謙信が急死して上田長尾家の上杉景勝と北条氏の上杉景虎との間で家督相続を巡り争う御館の乱が起きました。上杉景勝は関東から北条氏の侵攻を防ぐため、深沢利重や登坂与衛門尉らに命じて三国街道に荒戸城を急遽築きました。北条氏と上杉氏は三国街道を抑える荒戸城を巡り争奪戦を繰り広げましたが、上杉景勝が上杉景虎を滅ぼして家督を継承しました。

新潟県南魚沼郡の荒戸城跡

荒戸城跡

北条氏と上杉氏の争奪戦が繰り広げられ、北条方の猿ケ京衆の攻撃で再度攻め落とされたときに上杉景勝の父直江兼豊の叔父と言われる樋口主水助兼一が戦死したと伝わります。

江戸時代

三国街道は長岡藩、村松藩などの参勤交代や佐渡奉行の赴任、佐渡へ送られる無宿人などが通行し多くの人の往来や米や織物などの幾多の産物の運搬のために賑わいました。古くから温泉が湧き出る地として湯治場として知られたほか、近隣の農民が閑農期に体を休める地となりました。幕末の戊辰戦争では、三国峠の戦いに敗れた会津軍が二居峠まで撤退するときに浅貝宿と二居宿の本陣や脇本陣などの建物が焼失しました。

新潟県南魚沼郡の三国峠

三国峠

越後・上野・信濃国の3つの国境にあたり、古くから越後国と関東を結ぶ重要な街道でした。上州永井宿から湯沢宿までの険しい道には浅貝宿、二居宿、三俣宿が設けられました。。

新潟県南魚沼郡の三国街道脇本陣跡池田家

三国街道脇本陣跡池田家

戊辰戦争で撤退する会津兵が宿場町を焼き払いましたが、本陣の関新右衛門と戦国武将の池田輝政の末裔とされる脇本陣の池田七右衛門が会津軍に懇願して焼失を免れました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治12年(1879年)に南魚沼郡が発足しました。生糸が日本の主要な輸出品となると、雪国の副収入として養蚕が増えていきました。大正時代初期にレルヒ少佐によりスキーが伝えられたことで、東京方面からスキー客が訪れるようになりました。昭和9年(1934年)に高半旅館を訪れた川端康成は、のちにノーベル文学賞を受賞する雪国の執筆を始めました。昭和57年(1982年)に上越新幹線が開業して首都圏からのアクセスが劇的に向上したことを受け、バブル経済の後押しもありスキーブームやリゾートマンション建設へと繋がり、ひなびた温泉宿から東洋一のスキーリゾートへと変化を遂げました。