愛甲郡

愛甲郡は神奈川県北西部の東丹沢山麓に位置し、東端に相模川が流れます。愛川町と清川村で構成されており、神奈川県唯一の村である清川村は面積の9割が山林で占められており、愛川町は県内有数の工業団地があり製造業や物流拠点として発展しています。長い年月をかけて完成した宮ヶ瀬ダムは、形成した宮ヶ瀬湖を活かして日本で有数の観光地型ダムとなりました。
概要
- 面積
- 105.52km2
- 人口
- 42,455人(2022年2月1日)
- 含む町村
- 愛川町、清川村
- 地図
歴史
戦国時代に甲斐武田氏と小田原北条氏が三増峠で関東最大級の野戦を繰り広げました。近代に炭焼きとともに養蚕が産業の主体となり、愛川町には広大な桑畑が形成しました。戦争が近づくと桑畑は相模陸軍飛行場となり、戦後に内陸工業団地へと変化しました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
300万年前は海で古代貝の化石が見つかりました。やがて隆起して陸地を形成しました。宮ヶ瀬遺跡から旧石器時代の出土品があり、縄文時代後期の敷石住居跡が見つかりました。中津・半縄地区では縄文時代中期の棒状の磨製石器が出土し、中津・六倉地区からは弥生時代の有角石斧が見つかりました。
古墳時代、飛鳥時代
宮ヶ瀬湖の底に沈んでいるエリアには古墳時代後期の竪穴住居跡がありましたが、それ以外の記録は特に見当たりませんでした。
奈良時代、平安時代
八菅山は修験道の開祖と言われる役小角や行基が峰入修行を行い、経ヶ岳では弘法大師が経文を納めたという伝説が残されています。承平5年(935年)に六倉郷が開かれ、相模川の渡船場が置かれました。厚木市域に毛利荘が成立し、領主の源義隆が毛利姓を名乗るようになりました。平治の乱で毛利義隆が討死すると、藤原姓毛利太郎景行が支配しました。
鎌倉時代、南北朝時代
毛利荘の預所職に大江広元が任命され、大江広元の四男・大江季光が住んで毛利姓を名乗りました。承久3年(1221年)の承久の乱で毛利季光は安芸国吉田荘や越後国佐橋荘の地頭職を与えられますが、宝治元年(1247年)の三浦氏の乱で討死して、北条得宗家の領地となりました。
室町時代、安土桃山時代
小田原の後北条氏の支配下に入り、甲斐武田氏に対する前線となりました。永禄12年(1569年)に甲斐の武田信玄が小田原の北条氏康を攻めますが、小田原城は落城せず撤退しました。北条氏照と北条氏邦は撤退する武田軍を三増峠で待ち伏せして戦いとなりますが、武田軍の山県昌景が志田峠を下り北条氏の背後を突いたことで武田氏の勝因を作りました。
江戸時代
小田原藩の支配下に入りますが、幕府直轄領や旗本領なども混在する状態となりました。文化4年(1807年)に八丁式撚糸機が導入され、高座郡、津久井郡とともに相模三大養蚕地の地位を確立しました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治維新を迎えて神奈川県に属したのち、明治5年(1872年)に足柄県となり、明治9年(1876年)に再び神奈川県となりました。明治時代から戦前にかけて、炭焼きとともに養蚕が産業の主体となり、炭は近接の町へ繭は近郊の製糸工場へ運ばれました。桑畑は相模陸軍飛行場となり、戦後に内陸工業団地となりました。昭和47年(1972年)に宮ケ瀬ダム建設が具体化して反対運動が起こり、長らく交渉が重ねられた末、平成12年(2000年)に宮ケ瀬ダムが完成しました。
仏果山
仏果山は東丹沢にある低山で、家族ずれに人気があります。仏果山の名称は、室町時代に清川村の正住寺を開いた仏果禅師が座禅修行をしたことに由来します。仏果禅師が座禅をしたといわれる座禅石は仏果山の南東麓にありましたが、平成13年(2001年)に周辺が採石場となり土山峠近くに移されました。
- 山行日
- 2005/4/27
- 天 候
- 晴れ
- ルート
- 仏果山登山口(12:35)~宮ヶ瀬越(13:10)~仏果山(13:30)、仏果山(14:15)~半原バス停(15:05)
- 地 図
- 山と高原地図「丹沢」
- 同行者
- 単独
- 標 高
- 仏果山(747.1m)

宮ヶ瀬湖
平成12年(2000年)に完成した宮ヶ瀬ダムで形成したダム湖です。噴水やクリスマス時期のイルミネーションなど観光資源として活用されています。

仏果山
都心に近い丹沢の低山で、関東平野や宮ヶ瀬ダムを眼下に見下ろします。仏果山から半原地区は鹿よけフェンスが設けられています。
