秦野市

秦野市は神奈川県中央の西部に位置し、北部の丹沢山地と南部の大磯丘陵に囲まれる盆地を形成しています。太平洋岸気候に属して降雪が少なく比較的温暖な気候をしています。日本有数のカルシウム含有量を誇る鶴巻温泉があり、秦野盆地湧水群は全国名水百選に選ばれています。
概要
- 面積
- 103.76km2
- 人口
- 161,826人(2022年2月1日)
- 市の木
- サザンカ、コブシ
- 市の花
- ナデシコ、アジサイ
- 市の鳥
- ウグイス
- 地図
歴史
旧石器時代から人の営みがありました。平将門を討伐した藤原秀郷の子孫が波多野氏を名乗り支配しました。やがて後北条氏が台頭して支配しますが、豊臣秀吉に滅ぼされて徳川家康の支配下に置かれました。富士山噴火の降灰による土壌変化によりタバコ栽培が盛んになりました。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
旧石器時代から人の営みがあり、堂坂遺跡や不弓引遺跡などが見つかりす。太岳院遺跡からは石器が集中して検出されたほか、調理施設と思われる礫群も発見されました。縄文時代早期には東田原八幡遺跡、縄文時代前期は東北久保遺跡に集落跡が形成しました。縄文時代中期から急速に集落が発達し、天神台遺跡、東開戸遺跡、今泉峯遺跡、寺山遺跡、堂坂遺跡、稲荷木遺跡などで住居跡のほか墓壙が形成しました。縄文時代後期から急速に遺跡が減少し、ほとんどの集落が途絶えてしまいました。弥生時代中期には鶴巻根丸島遺跡や北矢名鉾ノ木などに集落が形成しました。
古墳時代、飛鳥時代
古墳時代前期から中期に沖積平野の自然低湿地を中心に集落がありましたが、古墳時代後期以後には秦野盆地が開拓されて人が移り住みました。市域には二子塚古墳や桜土手古墳群が残されています。

二子塚古墳
金目川左岸の台地上に築造された6世紀末頃の前方後円墳で、周辺には下大槻欠上遺跡、広畑古墳群、岩井戸・欠ノ上横穴墓群があり一帯が墓域として利用されていました。

桜土手古墳公園
7世紀後半に築造された円墳群で、古墳群としては県内で最大規模と言われています。現在は保存古墳6基と復原古墳1基が桜土手古墳公園として整備されています。
奈良時代、平安時代
承平5年(935年)の承平の乱で平将門を倒した藤原秀郷は、その功により東国の国司に任ぜられ、その子孫が秦野盆地に土着して勢力を広めました。波多野氏の祖・波多野経範は、前九年の役で源頼義・義家父子に従い、保元元年(1156年)の保元の乱では波多野義通は源義朝とともに源為義らを破りました。治承4年(1180年)に源頼朝が平家討伐に挙兵すると、波多野義常の一族は平氏側につきました。源頼朝は石橋山合戦に敗れて安房に逃がれますが、のちに関東各地の武士を従えて鎌倉へ入りました。波多野義常は追討を恐れて松田郷で自害し、波多野氏の一族である河村義秀も所領を没収されました。

弘法山
弘法大師空海がまだ名の知られていない僧のとき、小屋を建てて修行した場所と言われます。弘法大師は村の火事を予言し、村人はこの山を弘法山と呼ぶようになりました。
鎌倉時代、南北朝時代
秦野の相続を許された波多野義常の弟忠綱は、源頼家や源実朝に仕えて幕府の要職につきました。承久3年(1221年)の承久の乱の軍功により波多野義重は越前国志比荘の地頭職を与えられて移り住みました。承久元年(1219年)に3代将軍・源実朝が兄頼家の遺子公暁により暗殺されると、武常晴が源実朝の首を取り返して波多野忠綱を頼り秦野の地に来て埋葬したと伝えられています。
室町時代、安土桃山時代
応永16年(1409年)に鎌倉公方となる足利持氏は、執事の犬懸上杉氏憲と領地問題で対立しました。犬懸上杉氏憲は幕府に対して挙兵して敗北する乱が起こり、これを契機に駿河駿東郡の大森頼春が進出しました。明応4年(1495年)に大森氏を滅ぼした北条早雲は、相模国に勢力を伸ばして三浦氏の家臣・武左京亮一族と戦いました。北条氏は甲斐の武田氏や越後の上杉氏と争いながら関東一円に勢力を広げましたが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉に降伏しました。
江戸時代
関東を治めた徳川家康は、家臣の大久保忠世を小田原城に入れて支配しました。寛永9年(1632年)に稲葉正勝が小田原藩主に任ぜられました。元禄年間には大名や旗本の支配となりました。秦野盆地では稲作は限られた地域でしか行われず、麦や大豆などの雑穀類の畑が広がりました。江戸時代初期から栽培されてきた煙草は、宝永4年(1707年)の富士山噴火後の降灰による土壌変化により更に盛んになりました。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県で足柄県に属し、明治9年(1876年)に神奈川県に編入されました。江戸時代から栽培されていた煙草は、草山貞胤の研究により秦野煙草として全国三大銘葉と知られるようになりましたが、明治31年(1898年)の葉煙草専売法の公布に反対して刻み煙草を製造していた人たちが織物産業に転換していきました。大正2年(1913年)に軽便鉄道が開業し、大正10年(1921年)に秦野自動車株式会社が設立されました。軽便鉄道は利用客が減少したうえ関東大震災の損害により、昭和2年(1927年)の小田急の開通の影響などから、昭和12年(1937年)に軽便鉄道は廃止されました。昭和30年(1955年)に秦野市が新設され、昭和38年(1963年)に西秦野町と合併して現在に至ります。

震生湖
大正12年(1923年)の関東大震災により渋沢丘陵の一部が崩落し、その土砂が川を堰き止めて形成した湖です。
