ぶらり歴史旅

歴史、文化、グルメに触れる教養チャレンジ!

川崎市

神奈川県川崎市の多摩川と市街地

川崎市は神奈川県北東部に位置し、多摩川を挟んで東京都と接しています。西部は丘陵地で中央部は台地と多摩川をはじめとする河川沿いの沖積低地を形成します。高度成長期には京浜工業地帯の中核として日本の産業を支えてきましたが、近年は世界的な企業や研究機関が集まる国際的な産業・研究開発都市へと変化しました。

概要

面積
143.01km2
人口
1,537,929人(2022年2月1日)
市の木
ツバキ
市の花
ツツジ
地図

歴史

旧石器時代から人の営みが残されています。江戸時代には東海道の宿場町として発展し、沿岸部の埋め立てと用水が引かれて新田開発が進められました。鉄道が敷設されてから工場進出が進み、高度成長期に京浜工業地帯の中核となりました。近年は世界的な企業や研究機関が集まる国際的な産業・研究開発都市となりました。

旧石器時代、縄文時代、弥生時代

旧石器時代の人びとは相模野台地と武蔵野台地で狩猟採集して生活し、鷲ヶ峰遺跡からこの時代の石器が出土しています。縄文時代は多摩丘陵で生活をはじめ、万福寺遺跡群から土器や石器が見つかります。縄文時代早期には菅生水沢遺跡や井田中原遺跡に集落を形成し、縄文時代前期には鷺沼遺跡や稲荷森遺跡など内陸部に集落が広がりました。縄文時代後期になると富士山の噴火などで集落が減少していき、縄文時代晩期は下原遺跡しか知られていません。弥生時代中期後半に梶ヶ谷神明社上遺跡に集落が形成し、弥生時代後期になると東高根遺跡にも集落を形成しました。

神奈川県川崎市の子母口貝塚

子母口貝塚

多摩川の沖積地を望む台地上に位置する貝塚で、竪穴住居跡などは見つかりませんが、縄文時代早期の子母口式土器や撚糸文系土器の井草式土器が出土しています。

神奈川県川崎市の東高根遺跡

東高根遺跡

多摩丘陵の東端に位置する台地上にある弥生時代後期から古墳時代後期にかけて営まれた集落跡で、県立東高根森林公園として整備・公開されています。

古墳時代、飛鳥時代

4世紀後半に前方後円墳の白山古墳が築造され、5世紀末から6世紀にかけて西福寺古墳、二子塚古墳、上丸子古墳と地域を移動して築造されています。5世紀末から6世紀末にかけて白井坂埴輪窯跡で生産された埴輪は、西福寺古墳に置かれました。6世紀半ば過ぎには南関東で最古級の横穴式石室を持つ塚越古墳が築造され、7世紀になると加瀬山付近に馬絹古墳や法界塚古墳が築造されています。

神奈川県川崎市の西福寺古墳

西福寺古墳

5世紀後半~6世紀初頭に築造された円墳で、現在は公園として整備されています。墳丘を囲繞する周溝の存在や周溝上の畑地から円筒埴輪片等が採集されています。

神奈川県川崎市の馬絹古墳

馬絹古墳

7世紀後半に築造されたと考えられる円墳で、大型の横穴式石室が発掘されました。玄室の奥壁や側壁には白い粘土で円文などが描かれているようです。

奈良時代、平安時代

律令体制に基づく国造りにおいて、武蔵国橘樹郡に属して郡家が置かれました。郡家西側には古代寺院跡の影向寺遺跡があり、多摩丘陵上には火葬骨蔵器が密集して分布するため、早くから仏教が浸透したと考えられています。9世紀に橘樹郡家が衰退して河崎荘、加瀬荘、丸子荘、稲毛荘などの荘園が成立していきました。平安時代末期には武蔵平氏の稲毛三郎重成が稲毛荘の在地領主となりました。

神奈川県川崎市の橘樹官衙遺跡群

橘樹官衙遺跡群

7世紀後半から9世紀中頃まで存在した郡衙遺跡です。8世紀には規則的に配置された総柱建物4棟と側柱建物6棟が造られ、8世紀前半に13棟の総柱建物が造られました。

神奈川県川崎市の影向寺遺跡

影向寺遺跡

7世紀後半から8世紀前半に創建された古代寺院です。8世紀中頃には塔の造営と金堂の改修が行われ、10世紀初頭まで補修が行われました。

鎌倉時代、南北朝時代

稲毛重成は源頼朝から稲毛荘を安堵され、文治5年(1189年)の奥州征伐にも従いました。稲毛重成は北条政子の妹である妻が亡くなると、元久2年(1205年)に畠山重忠謀殺事件の嫌疑により北条氏により一族が滅ぼされました。武蔵国は北条氏の支配が本格化し、承久3年(1221年)には幕府直轄領として事実上の北条得宗家領となりました。元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が滅亡すると、北条氏の所領は没収されました。室町幕府を開いた足利尊氏は鎌倉府を置いて関東を支配しますが、足利尊氏と鎌倉の足利直義が対立して観応の擾乱となり、正平6年/観応2年(1351年)に足利基氏が足利直義の軍勢が籠る小沢城を攻略して内乱は終息しました。

室町時代、安土桃山時代

享徳3年(1454年)に鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害すると、鎌倉公方と関東管領上杉氏との対立が激化し、関東各地で争いが起こりました。伊豆を平定した伊勢宗瑞(北条早雲)は、永正の乱で上杉氏と古河公方が争う隙に相模国に侵攻して相模国を平定しました。伊勢宗瑞の後を継いだ伊勢氏綱は、北条氏を称して武蔵国へ領国を拡大していきました。大永4年(1524年)に北条氏綱は太田資高と通じて江戸城を奪取し、北条氏康、北条氏政と統治を続けましたが、天正18年(1590年)に豊臣秀吉による小田原征伐で北条は滅亡し、北条氏の旧領は徳川家康に与えられました。

江戸時代

慶長2(1597年)に徳川家康は小泉次大夫に命じて用水掘削を始め、慶長16年(1611年)年に二ヶ領用水と六郷用水を完成させました。元和9年(1623年)には東海道の宿場町として川崎宿が正式に認められ、地域を横断する脇往還が整備されていきました。小杉は商人荷物の取り扱いで賑わい、将軍家の休憩所として小杉御殿が置かれました。幕府の財政が窮乏していくと新田開発などが盛んに行われていきました。慶安3年(1650年)に新川堀用水が開削、寛文9年(1669年)に大師河原塩田が開発され、宝暦12年(1762年)に池上幸豊が笹出し手法で海を埋め立てて池上新田を開発しました。干ばつの用水を巡る争いも頻発し、文政4年(1821年)に溝ノ口村水騒動が起こり、天保7年(1847年)の天保の大飢饉で川崎宿でも騒動が起こりました。

神奈川県川崎市の川崎大師

川崎大師

江戸時代後期に川崎大師平間寺への災厄消除の信仰が将軍や御三卿などに広まり、堂宇の整備が進みました。庶民にも災厄消除の信仰が広がり隆盛を極めました。

明治時代、大正時代、昭和時代

明治4年(1871年)の廃藩置県で神奈川県の管轄となりました。明治5年(1872年)に日本で初めて新橋-横浜間の鉄道が開通して川崎駅が開設し、川崎大師の参拝者は増えましたが川崎宿は大きな打撃を受けました。明治19年(1886年)には御幸煉瓦製造所が操業して東京や横浜に煉瓦が供給されました。明治26年(1893年)に栽培が始められた長十郎梨は、多摩川流域一帯で盛んに栽培されるようになりました。明治31年(1898年)に立川勇次郎により大師電気鉄道株式会社が創立され、のちに京浜電気鉄道と改称されました。急速に工業地帯が形成して人口が増加し、大正12年(1923年)の関東大神震災で被害を受けつつも翌年に川崎市が誕生しました。

戦後の発展

昭和10年(1935年)に多摩川沿いと海沿いの工場を結ぶ運河建設の計画が立てられましたが、アジア太平洋戦争の激化により計画が廃止されました。昭和17年(1942年)から終戦まで十数度も空襲を受けました。昭和30年代になると京浜工業地帯の中心として躍進を遂げ、昭和46年(1971年)に大師河原の漁業権が放棄されました。昭和47年(1972年)に政令指定都市となり、昭和57年(1982年)に現在の行政区が完成しました。