八王子市

八王子市は東京都南西部にあり、神奈川県の県境で関東平野と関東山地の境界に位置します。西部ある高尾山や陣馬山を背景に自然と市街地が隣り合う環境で、小規模ながら盆地状の地形であるため、寒暖の差が激しくなる内陸性気候をしています。新宿や横浜などに1本で到着できる都会的な利便性と豊かな自然が共存する立地から、首都圏のベッドタウンとして住宅開発が進み、多摩地域最大の都市として発展を遂げています。
概要
- 面積
- 186.38km2
- 人口
- 578,877人(2022年2月1日)
- 市の木
- イチョウ
- 市の花
- ヤマユリ
- 市の鳥
- オオルリ
- 地図
歴史
交通の要衝として古くから栄えた八王子は、戦国時代には小田原北条氏の一門である北条氏照の本拠地として発展しました。江戸時代初期に甲州道中が整備されると宿駅が開かれ、甲州道中最大の宿場町として発展していきました。八王子は古くから桑都と呼ばれ、養蚕業が盛んな地域で、江戸時代中期から生糸や絹織物が盛んに商われていました。戦後に多摩ニュータウンをはじめとした首都圏のベッドタウンとして住宅開発が進み、多摩地域最大の都市として発展を遂げています。
旧石器時代、縄文時代、弥生時代
最も古い遺跡は多摩ニュータウン№402遺跡で、寺前遺跡、宇津木台遺跡群、石川天野遺跡、下耕地遺跡、小比企向原遺跡などの丘陵地から石器が発見されています。縄文時代には豊かな自然に恵まれた台地や丘陵地を中心に宮田遺跡や椚田遺跡群で集落跡が残されています。弥生時代は中期までは大規模な集落は形成せず、水崎遺跡や叶谷遺跡などで弥生時代中期の再葬墓が発見されています。弥生時代末期になると宇津木向原遺跡、鞍骨山遺跡、神谷原遺跡に方形周溝墓が形成しました。

椚田遺跡
椚田丘陵に形成した縄文時代中期の集落跡で、270軒以上の竪穴住居が発見されています。敷石住居跡、円形竪穴住居跡、方形竪穴住居跡が復元されています。

船田石器時代遺跡
多摩丘陵に形成した縄文時代の集落跡で、縄文時代中期末から後期初頭の敷石住居跡が発見されました。敷石住居は扁平な川原石を敷いたもので中央に炉がありました。
古墳時代、飛鳥時代
6~7世紀にかけて築造された小宮古墳、船田古墳、川口古墳などが11基確認されており、このほか斜面に穴を掘り横穴墓が確認されています。7世紀頃には多摩川流域の南武蔵地域で最大の北大谷古墳が築造され、古墳時代後期になると中田遺跡や船田遺跡に集落が形成しました。
奈良時代、平安時代
律令制の施行により武蔵国の多磨郡に属しました。聖武天皇の勅命で全国に国分寺が建立される頃になると、天平16年(744年)に髙尾山薬王院有喜寺が創建したと伝わります。9世紀後半から10世紀中頃にかけて御殿山窯跡群で須恵器が生産されました。平安時代になると、多磨郡には由比・石川・立野・小川の4つの御牧が開かれました。のちに開かれる小野牧は小野氏が別当を務めて武士団の横山党と繋がります。12世紀になると船木田荘が成立して横山党と呼ばれる武士団が形成しました。

横山党根拠地
横山党は平安時代末期から鎌倉時代前期に存在していた武蔵国最大規模の武士団でした。八幡八雲神社から妙薬寺付近まで横山党の居館が置かれていたとされます。
鎌倉時代、南北朝時代
鎌倉時代初期の和田合戦で横山党の主要な人物が滅亡し、多くの所領が没収されて大江氏一族の長井氏が支配するようになりました。船木田荘には新荘と本荘があり、新荘の河口郷の河口氏、由井郷の由井氏や鎌倉御家人の天野氏などがいました。

片倉城跡
応永年間に長井氏が築城したと伝えられ、後北条氏の時代に改変が加えられたとされています。現在は片倉城跡公園として整備されており、二ノ丸広場には空堀が残ります。

初沢城跡
椚田城や高乗寺城とも言われ、横山党の一族・椚田氏や長井大膳太夫高乗が築城したとされていますが詳細は不明です。戦国時代末期には八王子城の支城のひとつとなりました。

横山氏墓
横山党は八王子市域を拠点としていました。妙薬寺にある宝篋印塔は、永和3年(1377年)の銘があり、武蔵七党横山氏の小野秀綱の供養塔と伝わります。

広園寺境域
康応元年(1389年)に鎌倉幕府の政所初代別当の大江広元の後裔である大江師親が創建したとされます。小田原征伐で焼失しましたが、浅野幸長が再興しました。
室町時代、安土桃山時代
室町幕府を開いた足利尊氏は関東を支配するため鎌倉府を設置し、鎌倉公方を頂点として関東管領に補佐させました。鎌倉公方と関東管領が対立して戦乱となると、関東管領上杉氏の重臣である大石氏が八王子に侵攻しました。16世紀初頭に長井氏が滅亡し、大石氏は浄福寺城や高月城、滝山城を拠点として支配を強化しました。小田原を拠点とする北条氏康は、三男・北条氏照を大石氏の養子として支配を継承しました。永禄12年(1569年)に武田信玄の小田原侵攻では、北条氏照が滝山城で防戦しています。やがて北条氏照は八王子城に移りますが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原討伐で激しい攻撃を受けて落城しました。

滝山城跡
大永元年(1521年)に大石定重が築城したとされ、永禄11年(1568年)から天正15年(1587年)まで北条氏照が八王子城に移るまで居城としました。

玉田院墓
高遠城主仁科盛信の娘・小督の墓です。武田氏が滅亡して松姫とともに甲斐から逃れて八王子に入りました。玉田院が廃寺になり、極楽寺に引き取られたと言われます。

八王子城跡
北条氏照が築城した山城で、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐において、前田利家や上杉景勝に攻められて落城しました。

北条氏照及び家臣墓
北条氏照の家臣・中山家範の孫にあたる中山信治が北条氏照の100回忌に建立した供養塔で、その両脇には中山家範と中山信治の墓があります。
江戸時代
北条氏が滅亡してから徳川家康が関東に入り、大久保長安が指揮して甲州街道に八王子宿が置かれました。八王子宿では宿町が開かれ、八木宿、久保宿、嶋坊宿、本郷宿、小門宿、上野原宿、寺町、子安宿、新町、本宿、横町、馬乗宿を合わせた八王子十五宿ができました。徳川氏は甲斐武田氏旧臣を八王子城下に配置して治安維持に当たらせ、関ケ原の戦いに備えて千人同心と呼ばれる集団に強化しました。

小仏関跡
北条氏照が小仏峠の頂上に築いたのが始まりで、徳川家康により移設されました。甲州街道で最も重要視した関所で、通行人の往来を規制していました。

長田作左衛門墓
長田作左衛門は北条氏照の家臣で、八王子城が落城したあとに前田利家に取り立てられて新しい八王子の宿場開設に尽力したと伝えられています。

原胤敦墓
千人頭の原半左衛門胤敦は蝦夷地の開拓と警備を幕府に願い出て、寛政12年(1800年)に仙人同心の子弟100名を率いて蝦夷地に渡りました。

松本斗機蔵墓
松本斗機蔵は江戸の昌平坂学問所で学び、海外事情に強い関心を持ち最上徳内と親交を温めました。著書の献芹微衷では海外事情の研究から海防の政策を提言しています。

植田孟縉墓
植田孟縉は千人同心組頭で、新編武蔵国風土記稿の編纂に従事したほか、武蔵名勝図会などを執筆しました。天保14年(1843年)に亡くなり、宗徳寺に墓があります。

塩野適斎墓
塩野適斎は千人同心組頭で、原胤敦や植田孟縉らとともに新編武蔵国風土記稿の編纂に従事しました。弘化4年(1847年)に死去して信松院に墓が残されています。
明治時代、大正時代、昭和時代
明治4年(1871年)の廃藩置県を受けて翌年に神奈川県に移管され、明治26年(1893年)に東京府へ移管されました。明治22年(1889年)に新宿―八王子間の甲武鉄道が開通し、明治41年(1908年)に八王子―東神奈川間の横浜鉄道が開通しました。明治20年(1887年)に八王子織物染色講習所が開設され、織物のまちとして八王子の象徴となりました。大正6年(1917年)に八王子市が誕生し、大正14年(1925年)に玉南電気鉄道(現京王電鉄)が開通して利便性が高まりました。大正15年(1926年)に大正天皇が崩御されると、昭和2年(1927年)に武蔵陵墓地に大正天皇陵が造営されました。昭和20年(1945年)の八王子空襲で市街地の8割以上が焼失しましたが、昭和38年(1963年)に多摩ニュータウンの開発が始まり、昭和40年(1965年)から京王高尾線の建設とともにめじろ台の開発により人口が増加しました。
高尾山から陣馬高原縦走
高尾山は奈良時代の高僧・行基が、天平16年(744年)に開山したとされます。のちに荒廃した状況が続きますが、永和5年(1375年)に京都醍醐寺の俊源大徳が飯縄大権現を感得して霊山として続いています。陣馬山から景信山に至る山塊は陣馬高原と呼ばれ、小仏城山や小仏峠は甲州と関東を結ぶ甲州裏街道として古くから往来があり、小田原北条氏は軍事的な要衝として守りを固めました。
- 山行日
- 2005/3/12
- 天 候
- 晴れ
- ルート
- 高尾山口(9:45)~高尾山(10:45)~一丁平(11:15)~小仏城山(11:30)、 小仏城山(11:55)~小仏峠(12:10)~景信山(12:30)~明王峠(13:30)~陣馬山(14:00)、 陣馬山(14:50)~藤野駅(15:20)
- 地 図
- 山と高原地図「高尾、陣馬」
- 同行者
- 単独
- 標 高
- 高尾山(599m)、小仏城山(670m)、景信山(727m)、陣馬山(855m)

高尾山薬王院有喜寺
奈良時代に行基が開山して後に荒廃しますが、南北朝時代に京都醍醐寺の俊源大徳が琴滝で滝行を重ねて飯縄大権現を感得し、再興したと言われます。

小仏城山
甲斐武田氏の侵攻に備えて、八王子の北条氏照が監視と守りの兵を置いたとされます。小仏城山の周辺に甲州街道が整備され、小仏城山の麓には小仏宿と駒木野宿が置かれました。

小仏峠
八王子を拠点とした北条氏照は、小仏峠に関所を設けて通行を監視しました。明治13年(1880年)に明治天皇が甲州巡幸で小仏峠で休憩されました。

陣馬山
戦国時代に小田原北条氏が甲斐武田氏と対陣したことから名付けられたと言われます。武田家滅亡の際には、松姫と小督が陣馬山を越えて八王子に逃げ延びたと言われます。
